四月 第一章 触手は神の使いじゃありませんわ。


第一話 ン・ロゥズで手に触れて


 週末の土曜日、私は噂の『ピッツァカフェ ン・ロゥズ』へ向かっていた。場所は学校から北東側に少し歩いたところ、私の家は南東側に歩いたところにあるから、大きな湖に沿って歩いていくのが近道だ。

 しばらく歩くと、遠くからでもわかる見慣れない新しい建物が目に入る。喫茶店にしては大きめの一階建てで、大きな煙突がよく目立つ。ピッツァカフェを冠するだけあって、ピッツァ用の窯もあるから普通の喫茶店より大きいのかもしれない。

 それにしても……、少し大きすぎるような気がするけれど、いってみればわかることだ。

 大きな両開きの扉の前に立って、私はちょっとだけ周囲の光景を見てから扉を押し開く。店の前には簡単な営業時間の案内があるだけで、メニューの書かれた看板は見当たらない。

 店内は外観から想像したままに、縦横に広い空間が広がっていた。いくつも並ぶ二人掛けと四人掛けのテーブル席に、奥には十人は座れるカウンター席もある。煙突の位置からすると、きっとあの奥に大きな窯があるのだろう。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

 奥にいたポニーテールの女性店員さんが私を出迎えてくれる。若くてかわいらしい店員さんだ。

「恋凜さーん! お客さんですよ」

 彼女はとてとてと奥に戻りながら、カウンターの奥に声をかけている。きっと店長さんを呼んでいるのだろう。他にお客さんもいないし、店長さんと話もできるカウンター席がいいかな。私はポニテの店員さんを追いかけるようにゆっくり歩いて、奥のカウンター席の真ん中あたりに座ることにした。

 メニューを一目見て、注文するものはすぐに決まった。店長さんを待っているらしい店員さんに声をかけて、私はマルゲリータを注文する。トマトとチーズとバジルのシンプルなピッツァで、それゆえにピッツァ職人の腕がよくわかる。そして何より一番安い。

 コーヒーにも色々な種類があったけれど、今回はピッツァを頼んだらセットで少し安くなるという基本のブレンドコーヒーを頼むことにした。

 店員さんは注文の内容を繰り返して、私が頷くと再び奥にいる店長さんの名前を呼んで、注文の内容を声で伝えていた。ここからでも厨房は少し見えるけれど、ピッツァを焼く窯は見えないからきっと奥にいるのだろう。

 店内をゆっくり眺めながら、マルゲリータが焼きあがるまでしばらく待つ。入り口からは見えなかったけれど、店内は横にも広い空間があるみたいだ。席のある場所から続いているからお客さんに向けた空間のはずだけど、ここからだと何があるかまでは見えない。

「店員さんは……」

 小声で言いながら私は周辺を探してみたけれど、店員さんの姿は見えない。カウンターの奥に向かう姿は見ていないから、広そうな横の空間か、店員さんしか知らないどこかにいるのだろう。

 大きな声をかけて呼ぶほどでもない。私はそう思って、頼んだ食べ物たちが到着するのを待つことにした。

「お待たせしました」

 マルゲリータとブレンドコーヒーを持ってきたのは、さっきのポニテ店員さんだった。

 届いたコーヒーを一口飲み、薄く焼かれたピッツァを手にとって口に運ぶ。どっちも初めて食べたら何度も通いたくなる美味しさで、私はピッツァを半分ほど食べたところで、今度は成ちゃんを連れて食べにこようと考えていた。

 マルゲリータピッツァを食べ終えて、残ったコーヒーを少しずつ味わいながら、私はさっき見つけた空間の方向を改めて見る。店員さんはそう遠くにはいないけど、もうすぐ食べ終わるのだから、食べたら覗いてみればいい。

「あの、あっちにいってもいいですか?」

 食後に立ち上がって、ポニーテール店員さんに一言声をかける。支払いを済ませる前に聞いておきたいことがあったのだけど、店員さんはタイミングだけで察してくれた。

「うん。お金はとらないけど……ま、いっか」

 少し店員さんの態度は気になったけれど、何もなかったらなかったですぐに帰ればいい。私は先に支払いを済ませて、ゆっくりとその場を覗いてみることにした。

 席のある場所から繋がった空間には、歩けばすぐに到着した。通路と呼べる長さの道はなく、そのまま続いている空間のようだ。奥にあったのは小さなギャラリーのような空間で、壁には数枚の絵が、壁際には置物が乗った高いテーブルが数台、等間隔に並んでいた。

 中でも目を引かれたのは、中央にある広くて低い木の大きな台だった。その台の中央に鎮座するように、何かの塊があったのだ。

 親指より少し太いくらいの長い丸紐が何十本も絡まっているような、不思議な塊である。粘土か何かで作られたオブジェのようにも見えるけれど、その塊は――正確にはそれぞれの長い丸紐が――動いているように感じた。

 なんだろうと思って、私はそっと手を伸ばす。すると、その塊から数本の長い丸紐が伸びてきて、すっと私の手に触れてきた。

 やっぱり動いてる! そんな私の驚きは、上回る次の驚きですぐに塗り潰された。

「わたくしの触手に触れたいなら、一声かけるのが礼儀ではありませんの?」

 その声は体の中に直接響くように聞こえてきた。女の子の声だ。けれどここにいる女の子は私だけで、もちろん店の中にいるポニテの店員さんの声とも違う。彼女が呼んでいた『恋凜さん』という人も女性だと思うけれど、私の、と言ったということは、声の主はここにいる不思議な生物に違いない。

「ごめんね、初めてだからわからなくて。あなたは何?」

 私は素直に謝って、尋ねる。すぐに答えは返ってこなかったけれど、手に触れている長い丸紐――彼女の言葉を借りると触手らしい――は握手をするように私の手に優しく触れていた。敵意は感じられないから、危ない生き物ではないと思う。

「何と言われましても、わたくしは触手ですわ。……あの、にぎにぎしないでくれます?」

「痛いの?」

「痛くはないですが、初対面に失礼ですわ」

「握手のつもりだったんだけど、違った?」

「……はあ」

 ため息が聞こえてきた。息を吐いているようには見えないから、ため息とは言えないのかもしれないけれど、はっきりとため息のような声が聞こえてきたから確かにため息だ。

「あなた、名前は何と言いますの? わたくしはンレィスですわ」

「私は色倉灯だよ。よろしくね、ンレィスちゃん。……ちゃんでいいかな?」

「ええ、いいですわ。初めてと言いましたが、灯。あなたは恋凜の知り合いではないんですのね?」

「うん。恋凜っていう人は、まだ名前しか知らないよ。あ、美味しいピッツァとコーヒーの味も知ってるかな」

「つまり、ただのお客さんであると。でしたら、そろそろ気付く頃合いですわね」

 ンレィスちゃんは私の手に触れていた触手を離すと、塊の中に戻していた。言葉の途中で戻していたけれど、声は変わらず聞こえていたから触れていなくても会話はできるみたいだ。

 最初はじっとしていた塊だけど、こうして話をしている今はときどき何本かの触手がぴょこぴょこと動いていて、かわいらしい。目がないから視線というのはわからないけれど、ずっと見ていると、ぴょこぴょこの動きでどちらに注意を向けているのかわかるような気がした。

 ンレィスちゃんが触手を向けているのは、私がやってきた方向とは違う、ギャラリースペースの端にひっそりとある小さな通路だ。きっとお店の人が使う道だ。私もそちらに目を向けると、そこから一人の女性が姿を現した。

 長くて綺麗な髪と、魅力的な整ったスレンダーボディ、高めの身長に似合う足首まで隠せそうなロングスカートに身を包んだ、顔立ちも見蕩れるほどの美人さんだ。

 彼女は私たちの姿を一瞥すると、それだけで全てを理解したかのように口を開いた。

「初めまして、花見櫓恋凜〈はなみやぐら れんりん〉です。ピッツァカフェの店長としては新米ですが、マルゲリータのお味はいかがでしたか?」

 にっこりと優しい声で恋凜さんが言う。

「美味しかったです。今度、ともだちを連れてきますね」

「ふふ、ありがとうございます。お名前は……少しだけ聞こえてはいるのですけれど」

「あ、色倉灯です」

 小さく礼をすると、恋凜さんは大きく頷いて話を続けた。

「灯さんですね。ンレィスさんともなかよくなったみたいですし、ひとつお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「お願い、ですか?」

「ンレィスさんとは縁あってこちらで暮らしていただいているのですが、よろしければあなたのお家に引き取ってもらえませんか? 細かい説明はのちのち少しずつお教えいたしますが、とりあえず食費の心配はいりません。場所も、部屋の中においてくだされば大丈夫です」

「はあ……」

 私が意味を理解しながら考えていると、今まで会話に加わってなかったンレィスちゃんがついに口を開いた。

「恋凜。灯にわたくしが見えているとはいえ、強引ではありませんの? 確かに灯とは気が合いそうな気もしますが、彼女は何も知らないんですのよ」

「家族の方には私が手紙をしたためます。灯さんはこの村の出身ですし、色倉の苗字は他にありませんから、あなたたちのことも存在は知っていると思いますよ。……兄弟がいるなら話は少し変わりますが」

 恋凜さんに目を向けられて、私は首を横に振る。私には兄も姉もいないし、弟や妹だっていない。生き別れも死に別れもいないから、生まれてからずっと一人っ子だ。

「よくわからないですけど、ンレィスちゃんに家族はいないんですか?」

 少し失礼かもしれないけれど、事情によっては私が手伝うのは別にあると思う。

「わたくしに家族と呼べる触手はいませんわ。触手とはそういうものですの」

「実際にはもっと複雑ですが、細胞分裂のような感じで増えていくと考えていただければ。血縁や親子という関係は、通常はないのです」

 ンレィスちゃんの答えを、恋凜さんが引き継いだ。

「ふーん……そうなんですね。ンレィスちゃんがいいなら、私はいいですよ。うち、両親も仕事であまり家にいないですし、楽しそうなので」

 二人とも仕事の関係で、村の外で働くことも多い。近くの街にいるのがほとんどだから、その気になれば日帰りで会いにいくこともできるけど、電車代という実費つきが条件だ。

「それに、ここのピッツァも美味しかったですし。こんなに美味しいピッツァを焼ける人が、悪い人だとは思えません」

 私が笑顔で答えると、ンレィスちゃんと恋凜さんは顔を見合わせて――ンレィスちゃんの方は雰囲気だけど――恋凜さんに促されて、ンレィスちゃんが答えた。

「条件がひとつありますわ。わたくしのことはンレィスと呼んでください。ちゃんと呼ばれるのは、いっしょに暮らすならお断りですわ」

 ンレィスちゃんが触手を一本伸ばしてくる。今度のはきっと、握手のための動きだ。

「うん。よろしくね、ンレィス」

 私はその一本の触手を優しく握ると、ンレィスも触手で握り返してくれた。

 こうして、私のおうちに一人? 一匹? 一体? 数え方には迷うけど、一本と数えたら紛らわしそうな触手が一触やってきたのです。


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