浴槽に溜まったお湯が微かに揺れて、少しだけ浴室の床にこぼれる音が響いた。静かに脚を入れた少年は、ゆったりと脚を伸ばして疲れを癒す。彼にとって、大好きな至高の時間。
言葉もなく、ただ心地好さに身を任せる少年の顔が、微かに変化する。何かに気付いたような、そんな表情を浮かべるが彼には違和感の正体はわからない。
直後。
浴槽に溜まったお湯が大きく揺れて、大量のお湯が浴室の床を流れる音が響いた。虚空から落ちてきた少女は、少年の体に覆いかぶさるように全身を重ねる。
ここはお風呂場。大胆な入浴方法を披露した少女も当然、一糸纏わぬ姿で美しい素肌を晒して……はいなかった。爽やかな夏服をお湯で濡らし、肌に張り付いた衣服の重さに心地悪さを感じながら、全裸の少年と正面から向き合う。
「こんばんは」
笑顔を見せて、少年に夜の挨拶をする少女。
「……こんばん、は?」
少女の顔を見つめて、少年も同じく挨拶を返す。
「なるほどね。こんなところに落ちてくるとは思わなかったけど、この高さなら水の衝撃も少ないし、支えてくれる男の子もいる。とっても安全な場所だね」
得心して頷く少女に、少年は彼女の重さと柔らかさを感じながら、状況の理解に努める。
「なあ」
「あ、ごめんね。色々聞きたいこともあるでしょ? でもとりあえず、ここを出てからにしてほしいな。濡れた服が肌に張り付いて気持ち悪いし、裸で気持ちよくしてるところにこんな美少女が現れたら、我慢できなくなったあなたに好きにされちゃうし」
「だったらどいてくれるかい? 母もいるから、俺が先に出ないと」
今のところ少年には驚きばかりで、そんな気持ちはこれっぽっちもないのだが、彼も一人の異性を愛する男子高校生。この状況が長く続けば、彼女の言葉通りに我慢できなくなる可能性も否定はできなかった。だから、驚きが支配しているうちに冷静に判断する。
少女は言われた通りに体をどけて、浴室の床に足を下ろした。靴ははいていないが、濡れた靴下が気持ち悪い。今にも脱ぎたそうな仕草を見せながら、少女が言った。
「挨拶するよ?」
少年は微かに視線を向けたが、すぐに逸らして考えを呟く。
「タオルとかの準備もしないと、説明は……」
「挨拶するよ?」
「ここでされても困る……いや」
二度目の言葉に少年は答える。考える邪魔をしないでほしいと注意するつもりだったが、そこでこの状況なら誤解はされないことに気付く。浴室に窓はなく密室に近い状態。入浴していたら突然女の子が落ちてきたと言っても、その言葉は嘘には聞こえない。むしろ下手にごまかして時間を稼げば、女の子を連れ込む時間と隙が生まれてしまう。
「挨拶はしてもらうとして、少し後ろを向いていてくれないか?」
「やだ、初めてが後ろからなんて……どきどき」
「君も見たくないだろ?」
「うん。私も年頃の女の子。同年代の男の子の裸には、興味津々だよ」
少女は後ろを向く気はなさそうなので、少年は無言で浴槽から出て、なるべく少女を見ないようにしながら浴室を出た。タオルで体を拭くのもそこそこに、軽く腰に巻いて廊下を抜け、居間でくつろいでいる母を呼びにいく。
「母さん。来てくれないか?」
「んー? お風呂、壊れちゃった?」
「それよりもっと大変なことだ」
首を傾げながらも少年の母はソファから立ち上がり、少年と少年の母は廊下を抜けて脱衣所へ向かう。少年が脱衣所の扉を開けると、下着姿の少女が待っていた。
(なんで脱いでるんだ!)
少年は驚きに声をあげそうになったが、咄嗟に平常心を保つ。少女はちょうどスカートを脱ぎ終えたところで、足を上げたまま二人の方に顔を向ける。
「初めては、見られながら?」後ろから母の声。
「そんな特殊な趣味はない」
母の誤解を解いている間に、冷静な思考を取り戻す少年。確かに、呼んでくる間に黙って待っていてなどとは一言も言わなかった。濡れた服が気持ち悪いとも言っていた。だったら、少しくらい脱ぐのは自然な反応だろう。
「こんばんはー」
挨拶しながらブラのホックに手をかけようとした少女に、少年はもう驚かない。
「それはあとだ」
「えー。特殊な趣味はないんでしょ? 興奮しても私は安全」
「説明」
少年が一言。全てはそれからだという態度に、少女は首を縦に振る。
「私は未来からやってきました。そしてお風呂に!」
とても簡単な説明に、少年は呆れた顔でさらなる説明を求めようとした。
「そうですかー。じゃあ、とりあえず替えの服は……」
(信じた!)
自らの母があっさり信じたことに、少年は驚きの顔を見せる。
「はい。詳しい話は着替えてから」
「ええ。じゃあ、着替えまでそのまま待っていてね? 浴衣は……」
「浴衣ですか?」
「ああ、俺の名前だ」
少女の疑問に、少年が答えた。
「ゆたか?」
「ゆかた」
聞き間違いではないと、少年は繰り返す。
「ゆぎはらゆかた。お湯の湯に、木琴の木、川原の原に……浴衣の浴衣で、湯木原浴衣だ」
「浴衣は先に着替えておいてね。お風呂に入ってからでもいいけど……」
「この状況じゃ、気になりすぎて気が休まらない」
少年の母が脱衣所の扉を閉めたところで、少年は少女の視線を気にしないようにしながら服を着ていく。幸い、さっきのうちに水気はとっておいたので、大事な部分をじっくり見られる心配はなかった。
パジャマに着替えた少年――湯木原浴衣と、同じくパジャマの少年の母、その母から借りた可愛らしいパジャマを着た少女が、居間で向き合っていた。
浴衣はセミショートの髪をしっかり乾かして、少女もセミロングの髪をさっと乾かしてまっすぐに下ろしていた。少女はお風呂に落ちてきただけなので、衣服はびしょ濡れでも髪はさほど濡れていない。長い髪でも時間はかからなかった。
自称美少女で未来からやってきたという少女。その自称に自惚れはなく、改めて顔を見た浴衣は少し前のことを思い出す。もし彼女が服を着ていなかったら、理性は保てても別の部分が危なかったかもしれない。
「ひいろあかねです。ええと、緋色の研究の緋色に、茜の茜!」
「ゆぎはらまきよ。第六天魔王の魔に、姫百合の姫で魔姫です」
(シャーロック・ホームズと織田信長……)
既に名乗りは終えている浴衣は、少女と母の名乗りを黙って聞いていた。少女の性格はこの短時間でも何となく理解したし、母もいつもこの調子だ。この程度では驚きはない。
「未来からやってきたって、どうして?」
浴衣が聞いた。茜が虚空から落ちてきたのは自ら目撃した事実。未来からという彼女の言葉も、ある程度は信用できる。
「逃げてきたんだよ。私たちが生き残るために」
「たち?」
「うん。先に逃げたお父さんは、怪我もしてたから失敗して死んじゃったんだけど。私の作ったタイムマシンは、健康体じゃないと安定性に欠けるのが難点で」
茜の視線が浴衣と魔姫の顔を順番に追う。その視線の意味をすぐに理解したのは、湯木原家母の魔姫だった。
「ゆすいさんは今ヨーロッパにいるのよ。油彩と水彩で、油水」
小さく茜が頷くのを見てから、浴衣が尋ねた。
「君が作ったのか?」
「うん」
「逃げてきたって、悪いやつにでも追われて?」
「うーん、それは違うね。正義に追われて、悪が逃げたの。私、悪の秘密組織の一人娘だから。そしてお父さんは、悪の親玉」
予想もしていなかった展開に浴衣はやや驚いたが、ここまでも予想外のことばかり。黙って彼女の説明を聞くことにした。
「それで壊滅させられそうになったから、最後の手段で過去に逃げてきたの。悪の親玉が死すとも、悪の頭脳が生き残れば問題ない。つまり、私がいれば大丈夫!」
「悪……」
具体的にはと聞きたい気持ちを抑えて、まだ続きそうな話に耳を傾ける。
「で、未来で発明した悪いことするための道具を持ち込んで、ここから世界征服!」
「俺の家から始めないでくれ」
「未来の正義の味方ってね、本当に凄いんだよ。私の発明も凄くてね、悪の秘密組織を結成したときは世界はもらったーって思ったんだけど、そこに現れた正義の味方!」
(無視された!)
「それから私たちの長い戦いは始まったんだけど、残念ながら私たちは負けちゃって」
「正義の味方が現れる前に、過去を変えてしまおうと?」
「え? タイムマシンで過去なんて変えられないよ?」
「タイムパラドックスね」
「未来って、意外と近い未来なのか?」
「それはまだ、ひ・み・つ。私の部下になると契約書にサインをしてからだよ」
「そこはしっかりしてるんだな」
「あ、詐欺は専門外だから安心してね。契約書には一生私に尽くすことと」
「契約はしない」
茜は小さく肩をすくめてから、話を戻した。
「えっとね、これが私のいた時間とするでしょ?」
右手の人差し指を立てて、視線で示す。
「で、こっちが今のあなたたちがいる時間だよ」
左手の人差し指を立てて、今度も視線で示す。肩幅ほどに離れた距離が、過去から未来への時間経過であるのだが、具体的な時間は口にされなかった。
「それで、私のタイムマシンがやったことは……これがこっちに、どーん!」
右の人差し指を、勢いよく左の人差し指にぶつける茜。
「これで二つの時間は合体するから――といっても未来要素は私一人なんだけど――新たな時間に矛盾は発生しないってこと。そしてこの新たな世界で、未来の技術が大活躍!」
「少しいいかな? それはつまり、君は元の時代に戻れないってことか」
「そうなるよ。でも、未来にいたら秘密組織は壊滅するのを待つだけ。正義の味方によって滅ぼされるくらいなら、負けない手段を考える。悪はしぶといんだよ!」
「相手は正義なんだから、酷いことはされないんじゃないか?」
浴衣の口から出た素朴な疑問に、茜は少し困った表情で答える。
「うーん、どうかな。正義の味方っていってもね、彼女たちが勝手に言ってるだけなの。確かにやってる行為は、私という悪の頭脳を筆頭とした悪の組織への対抗だけど、私たちと同じく彼らもどこからともなく現れたから」
「彼女に、彼?」
今度の素朴な疑問には、茜は素直に微笑んで答える。
「あ、それは正義の味方のトップが恋人みたいだから。でね、その技術も凄いんだよ。私の発明は地球上の誰にも真似できない、凄い技術なんだけど、それとはまた違った凄い技術で対抗されちゃって。捕まったら何をされるかわかんないよ」
「法廷で裁かれるより、大変なことに?」
「え? あはは、やだなあ。私たちの悪いことを全部足したら、宇宙放逐の流刑は確実だよ」
「宇宙放逐って」
「未来における、お金のかからない死刑相当の最高刑だよ。未来でもそんなに宇宙開発は進んでないから、粗末な宇宙船に乗せて遠くへはっしゃー! ってね」
「ちっとも人道的じゃないな」
「でも合理的だよ? 開発は進んでないけど、安価で宇宙に飛ばす技術は発達したから。さすがに、月くらいは開発してるよ」
確かに費用と効果を考えるなら、合理的ではあるのだろうと浴衣は理解する。
「ちなみに、これを考えて推進したのも正義の味方だよ。そういう考え方は、私としても共感できるんだ。もし別の出会い方をしていたら、仲良くなれたかもって思ってる。でもね、残念だけど私の手はもう血で汚れちゃってるんだよ」
悲しそうな表情をわざとらしく見せた茜に、浴衣は冷静に返す。
「自分の意思でやった女の子の言う台詞じゃないよね?」
「エラギャップ?」
時代を示すEraに、ずれを意味するギャップ。意訳するなら、時代間の感覚のずれ。
「人も殺したのか?」
「そう。私の手は血で汚れてるんだよ。実験や狩りで、鳥とか獣とかをたくさん殺したよ。人の血は怪我の治療をしたときに触ったくらいだよ」
確信をついた質問に返ってきたのはそんな答え。浴衣がほっとした表情を見せたのも一瞬。「人は私が悪いことをする大事な相手だから。いなくなったら意味がないでしょ? 私は人の世界を征服したいんだ。地球を支配したいんじゃないんだよ」
「悪いことはしてるんだな」
「最初から言ってるよ?」
「ああ。そうだった」
逃げてきたことや未来の話で忘れかけていたが、最初から彼女はそう言っていた。
「ということで、ここから始めるので泊めてください」
「部屋は二階の、浴衣の隣でいい?」
「いや、母さん」
「んー? 妹ができたみたいでいいでしょう? この家、浴衣に妹や弟がいつできてもいいように、子供部屋は三部屋作っておいたのに、ねえ?」
「ねえ? と言われても困るな」
「浴衣くん。そこは、だったらもっと子作りに励んでって言う局面!」
「言えるか!」
「甘いわよ浴衣。私と油水さんが励まなかったとでも……」
「答えないでくれ。それに聞いたのは俺じゃない」
「むう」
「むー」
どうやらこの二人は気が合うようだ。そのことに気付いた浴衣は、これ以上の抵抗はしても意味がないと悟る。
「俺たちに危害を加えないと約束してくれるなら」
まっすぐに茜の目を見て、浴衣は言った。
「契約書を用意してもいいよ? 私は一人で未来からやってきた。あなたは大事な男の子。新たな悪の秘密組織を作るには、子作りもしないといけないんだよ」
「避妊具ならあるけど……私と油水さん、まだ現役だから」
(この会話には加わらないようにしよう)
「若いですよね。お世辞じゃなくて、二十代に見えますよ」
茜の言葉通り、浴衣の母の湯木原魔姫の見た目は非常に若く美しい。
「三十六歳よ。油水さんは三十五歳。現役」
最後の一言で露骨に視線を向けられたが、浴衣は無言で答えた。
「浴衣くんも格好いいですよね。もらってもいいですか?」
外堀から埋めるつもりか。浴衣は会話に加わることなく、事態を静観していた。
「茜ちゃんはいくつ?」
「十五歳です」
「浴衣と同じね。見ての通り、浴衣は美少年だけど」
「む」
さすがに恥ずかしい話になりそうだったので、浴衣は母に視線を送る。が、そんな視線程度で止まる相手でないのは彼も承知の上だった。反射的な行動である。
「浴衣は美少年だけど」
「好みは人それぞれだ」
「そうそう。浴衣はその好みが問題なの。可愛くて優しい女の子に告白されても、断るような息子を落とせるかしら?」
「その具体的な好みは?」
茜の質問に魔姫はにっこりと笑い、浴衣は首を横に振って答える。
「魚しか愛せない、それとも爆発萌え……」
「未来にはそんな性的嗜好があるんだな」
「現代にも探せばいるんじゃないかしら?」
一呼吸。
「落とし方はゆっくり考えます。私は別に、子作りさえしてもらえれば恋をしてもらう必要はないんだけど……どう?」
「どうもしない」
努めて冷静な浴衣に、茜も今日は諦めて肩をすくめていた。