自然なる者

第一舞台:イルナルヤ


 朝日が昇る。

 大地は柔らかな陽光を浴びる。

 湖面は輝き、湖は光に溶けていく。

 そよ吹く風は大樹の葉を揺らす。

 自然の息吹。

 世界に溢れるは、自然なる恵みの生命。

 それは世界そのもの。

 世界に暮らす数多の種族、その生命も。

 世界に広がる魔法の力、その源も。

 すべては――全てはそこにある。

 人は知る。

 それは自然の恵みであると。

 竜は知る。

 我らもその一部であると。

 天魚は知る。

 それは神とも呼べる存在であると。

 神霊は知る。

 それは我らの始祖であると。

 魔は知る。

 それは世界の歴史であると。


第一話 イルナルヤ村の導き


 朝日が眩しかった。秋風はまだ涼しくて、夏の終わりは感じても、冬の到来は感じない。春をも感じさせる陽気でも、遠くに見える稲穂たちが秋であると教えてくれる。

「……さて」

 その暖かさのおかげか、今日は普段より早く目が覚めた。妹を起こすにはまだ早いと、とりあえず家の外に出てはみたものの、このまま景色を眺めているだけというのも退屈だ。

 僕の視界に映るのは、眩しい太陽に、遠くに見える稲穂。土の道が繋ぐのは、木で作られたいくつかの建物。見慣れたイルナルヤ村の光景だ。僕は視線を動かして、家の隣にある林の方に目を向ける。

 そして迷うことなく、林の中へと歩み出す。細い道を抜けて向かう先は、村の自然が溢れる場所。イルナルヤ村の数少ない名所といってもいい、その場所へと僕は歩いていく。先にあるのは僕と妹の小さい頃からの遊び場。両親がそれを考えてこの場所に家を建てたのかは知らないが、十年以上も通い続けた道は幾分か歩きやすくなっている。

 まず最初に見えるのは、大樹の幹。人がここで暮らすようになった頃から大きかったその樹は、人がこの世界に生まれるより前からここにあったのだろう。

 さらに歩むと見えるのは、湖。浅く澄んだ小さな湖で、昔はここでよく妹と一緒に水浴びをしたものだ。五百年以上は生きている大樹の傍で、湖は美しい姿で輝いている。

 その光景を眺めてゆっくり時間を過ごそう。そう思っていた僕の考えは、湖に近づいてすぐに改めることになった。僕の目に映る光景は、大樹に、湖に、小さな女の子。

 見たことのない女の子だった。緑の髪はショートツインテール、瞳も同じ緑色で、涼やかな薄い服で身を包んだ、可愛い女の子だ。身長や体型から察するに、歳は十歳前後といったところだろうか。

 近くに大きな街があるイルナルヤ村に旅人が訪れることは、そこまで珍しくはない。けれどこんな時間に、女の子が一人で。それも林の中にいるというのは、滅多にあるものじゃない。

 女の子は誰かを待つように大樹の下に立っていた。その姿を見ると、五年前の妹の姿が重なる。僕が十歳、妹が九歳の頃。あの頃はまだ家事も不慣れな部分があって、簡単な家事を終えた妹を大樹の下で待たせることが多かった。

 今は今で家事にも慣れて――むしろたまに戻ってくる両親より得意なくらいになっているけれど、妹と一緒に毎日のようにここで遊ぶことはなくなっている。

 だからというわけではないが、僕はその女の子に声をかけることにした。親を待っているにしても、初めての村で女の子一人をこんな場所で待たせるだろうか。僕が知らないだけで何度も村を訪れたことがあるのかもしれないけれど、迷子なのかもしれない。好奇心で林の中に入って、戻る道が分からなくなり、目印になりそうな大樹を目指した……考えられる話だ。

「おはよう。君は、どこから来たんだい?」

 近づいて声をかける。女の子は僕の方を見て、笑顔で返事を返してきた。

「おはようございます。お兄さんは……」

「僕はライカ。この村に住んでて、ここにはよく来るんだ」

 女の子の疑問にはすかさず答える。迷子、にしては落ち着いている様子だ。でも迷子の子供というものは、必ずしも本人が迷子だと認識しているとは限らない。僕が迷子かヒノカが迷子か、そんな兄妹喧嘩をしたことも二度あった。

「ライカさん……コルボ・ライカさんですね」

「僕のことを? 君は……迷子じゃないみたいだね」

 イルナルヤ村は小さな村だ。名前を隠して生活しているわけでもないし、何度か訪れたことがあるなら名前を知っていても不思議じゃない。

「わたしはイスミです」

「イスミだね。覚えたよ。それで、君は一人でここに?」

「一人……はい。確かにこの村には一人で」

「村に、一人で」

 その歳でという言葉を続けようとして、イスミとあまり変わらない歳で村にやってきていた少女のことを思い出す。村の外には詳しくないけれど、そういう人も結構いるのだろうか。

「それと、ですね」

 イスミは困ったような顔で僕を見上げていた。

「うん」

「ライカさんについていってもいいですか? その、一人だと道に迷ってしまいそうで」

 微かな苦笑いを浮かべて、イスミは言った。どうやら僕の名前は知っていても、詳しい道は知らないようである。つまりは……。

「迷子?」

 僕の問いに、イスミは恥ずかしそうに、曖昧に小さく頷いてみせた。

「ヒノカ」

 イスミを連れて家に戻った僕は、予定通りに妹を起こすことにした。そのあとは予定になかったイスミの紹介という時間が待っているけれど、それまではいつも通りだ。

「……ん、うー」

 ベッドの上で体を起こし、寝ぼけ眼で僕の顔を見る妹ヒノカ。セミロングの髪には寝ぐせがついていて、寝巻きはほんの少しだけはだけて小さな胸が見えそうになる。いつもなら見ないでと怒られるので注視しないのだけど、今日は事情が違った。ヒノカの視線は僕から隣のイスミに移り、妹は微かに首を傾げる。

「……あれ、私……いつお兄ちゃんの子供を……産ん……」

 そこでヒノカははっと目を見開いて、早口でまくしたてる。

「お、お兄ちゃん、その子誰? あと今の忘れて、それから誰なのその女の子!」

「落ち着いて、ヒノカ。僕もまだよく分かってないから、全部は答えられない」

 どうやらまだ慌てている様子の妹に、僕は冷静に言葉を返す。ヒノカは頷きもせずに素早く乱れていた着衣を整えて、ベッドから飛び起きた。こういうときでもすぐに落ち着きを取り戻せる。それが僕の妹、コルボ・ヒノカという人物だ。

「準備できたよ。話、聞かせて?」

 セミロングの髪を大きな白いリボンでまとめて、着替えを中心に軽く身支度を整えたヒノカが言った。黒い髪と黒い瞳に映える、鮮やかな白のリボン。僕も色は同じだけど、その可愛らしさはヒノカにしか出せないものだ。

「わたしはイスミです」

「ヒノカ。お兄ちゃんとはどういう関係?」

 少々聞き方が気になるが、質問としては間違っていない。イスミも変なことは言わないだろうと、僕は黙って二人に会話を任せることにした。一歳違いとはいえ、ヒノカの方がイスミとは歳が近いし、女の子同士の方が話しやすいかもしれない。

「関係……昔からずっと見ていました」

「……昔から?」

 言葉だけを聞くと誤解を生みそうなイスミの言葉だけど、僕にとってもヒノカにとってもイスミは初対面の女の子。イルナルヤ村の村人でないはずなのに、昔からという言葉に疑問を覚えたのは僕も同じだった。

「もちろん、ヒノカさんも。ヒノカさんはお兄ちゃんのことが大好きな妹で」

「そんなんじゃないから」

 言葉の途中で即座に否定するヒノカ。兄としてはかなり寂しい気持ちになるけど、ここで僕が何を言っても妹に追撃されるだけ。わざと傷口を広げて喜ぶような趣味は僕にはない。

「でもさっきは」

「あれは寝ぼけてただけ。変な夢でも見たんだよきっと」

 ヒノカが忘れてと言ったのは僕にだけ。イスミが覚えていることに文句は言わないが、そのことで僕が思い出すのはどうしようもない。寝ぼけていたとはいえ素直な愛情表現に微かに頬を緩ませていると、ヒノカにきつく睨まれた。

「で、イスミは私たちに用があるの?」

「はい。よければ、村を案内してもらえませんか?」

 ヒノカが僕に視線を向ける。僕が頷くと、ヒノカも頷き返す。イスミの事情は分からないけれど、彼女は怪しい者ではないと、僕の直感がそう告げていた。ヒノカの直感も同じだったらしく、僕とヒノカは朝食と日常の家事を終えてから、イスミを案内してあげることにした。

「案内、といってもどこか見たいところはあるよね?」

 出発の前、僕はイスミに尋ねてみた。目的についてはついさっき、ヒノカが単刀直入に尋ねていたけれど、秘密ですの一点張り。ごまかしたり嘘をついたりもなく、とても清々しい。しかし完全に自由に任せられるのも困るし、イスミにとっても手間がかかるかもしれない。

「見たいところ……」

 ということで、目的を尋ねずに手段だけを尋ねるという方向で動いてみたのだが、考えている様子を見ると反応は悪くない。

「人、が見たいです」

 そして返ってきたのが、この答え。

「景色には興味ないと捉えてもいいね?」

「はい」

 僕の確認にイスミは大きく頷く。もっとも、村で景色を案内できる場所なんて、大樹と湖を除くとほとんどない。最初にそこを見たからなのか、それとも別の目的のためなのか、気にはなるけれどひとまず詮索はしないことにした。

「じゃあ、あそこだね」

「ああ。この時間なら、人もいないしちょうどいい」

 ヒノカの言葉に同意を示す。時刻は太陽が昇り始めて半分くらい。村に時計は少ないので正確な時間は分からないけれど、昼にはまだ早い時間であることは確かだ。

「賑わっても数人だけどね」

「えっと……どこへ?」

 僕と妹の会話が理解できないままのイスミに、僕は目的地を教えた。

「食堂さ。おにぎり食堂って呼ばれてる、村唯一のね」

 おにぎり食堂は僕たちの家から歩いて十数分のところにある。北のサンサリアの街へと繋がる街道から真っ直ぐに伸びた、村の真ん中を通る広い道の目の前。交易で賑わう街からの通り道というと人が集まりそうにも聞こえるけれど、イルナルヤ村は街道の端。基本的には村の米を出荷したり、行商人が訪れたりするくらいで、人通りはほとんどない。

 南にも道は続いているけれど、その先にあるのは魔族の領地。僕たち人族が好んで訪れるような場所ではない。といっても、旅人にとってはそれなりに魅力的な場所らしく、行ってみようとする者もたまに見かけるけど、その大半が途中で引き返して村に戻ってくる。

 それも当然で、ここイルナルヤ村は人族の領地と魔族の領地の境界線ではあっても、魔族が支配している地域と魔族が暮らす場所は同一ではない。詳しいことは知らないけど、魔族の暮らす場所に辿り着くのは人族にはとても大変だってことは、戻ってきた旅人の姿を見れば誰でも推測できる。

 食堂までの道を案内しながらそんなことを考えていて、ふと気になったことを聞いてみる。

「イスミの人って、人の姿をしているものって意味?」

「少し違います。厳密にいうと、竜や神霊など魂魄族以外の全ての種族です」

「それはまた……」

「広すぎるね」

 魂魄族というのは一般的に馬や牛といった動物の総称だ。それ以外の種族というと、僕の知る限りでは魔族、竜族、神霊族、霊族、人族の五つ。僕たちの住む神魔大陸に住む全ての種族であるけれど、海の先には他の種族も存在するらしい。

 竜まで人に含めるのは無理があるけれど、その他の種族と違って竜は大きい。目立つ存在だから、いないと仮定して人とまとめるのも自然なことだ。とはいえ……。

「でも、人族しかいないと思うよ?」

「普通なら、ね」

 僕たち兄妹の答えに、イスミは笑顔を返した。それならそれで構わないという意味なのか、今日は普通の日じゃないはずですという意味なのか。目的を秘密というからには後者の可能性が高そうだけど、尋ねても秘密にされるだけなのは目に見えている。

「お兄ちゃん、もしかしてイスミって」

「だったら面白いけど、いくらなんでも」

 耳打ちしてきたヒノカに、僕は小声で答えを返す。

「だよね」

 不思議そうに僕らを見ていたイスミを横目に、妹は小さく笑ってそう言った。

 到着した食堂の扉を開ける。中にいたのは一人の年上の女性――といっても年齢は十七歳だから、女の子といった方がいいだろう――だけだった。

「こんにちは、アミィリアさん」

「いらっしゃいませ。で、いいかしら?」

 カウンター越しに笑顔で挨拶をしてから、アミィリアさんは言葉を付け足した。

「それは、彼女次第ですね」

 僕はきょろきょろと店内を見回すイスミを見て、そう言った。

「見ない子ね。でも、それと同じくらい」

 アミィリアさんは茶色の瞳で僕とヒノカを交互に見る。僕より少し背が高いアミィリアさんは、このおにぎり食堂を営む店主だ。茶色い髪はミディアムロングのストレート。小さく結ばれた細長い黒のリボンに、白黒チェックのカチューシャが髪を彩る。胸の膨らみも控えめだけどある方で、昔から僕たち兄妹を知っているお姉さんである。だから、続く言葉を予想するのは簡単だった。

「ライカとヒノカが一緒にいるのも、久しぶりで珍しいね。どっちから?」

 そして同じく、妹の反応も大体予想通りである。

「今日はこの子をお兄ちゃんが案内してるだけです。お兄ちゃん一人だと心配だから、仕方なく私は付き合ってるだけで、別に私がお兄ちゃんと一緒にいたいってわけじゃありません」

 分かっていてもこうも淡々と言われるとやっぱり寂しい。

「それはそうと、おにぎりは?」

 アミィリアさんは深く尋ねることなく、僕たち三人に向けて尋ねてきた。

「今日もイルナルヤ村のお米と、ラトカ産の昆布と海苔の組み合わせは完璧。今ならお客さんもいないし、炊きたてごはんも無料でついて銅貨一枚。時間はちょっとかかっちゃうけど、どうかな?」

 途中で僕とヒノカが聞き流しているのを察したのか、アミィリアさんはイスミに向けておにぎりを勧めていた。

「えっと……その、お金は持ってないんです」

 イスミは最後まで聞いてから、申し訳なさそうにそう言った。

「残念。ところでライカ、もしここで待つつもりなら……」

「長居をするつもりはないですよ。商売の邪魔はしたくないですし」

 即座に切り替えてきたアミィリアさんに、僕もすかさず用意していた答えを返す。

「ところで、カラッドさんは?」

「カラッドなら、今日はちょっと用事があって遅れるって……昼頃には間に合うって言ってたけど」

「なら、他のところを案内した方がいいね。どうする?」

 小さな村でも多くの場所を回ろうとすれば時間がかかる。食堂は村の中央付近の通り道にあるし、必要ならまたあとで案内すればいいだろう。

「お任せします」

 念のための確認に承諾を得て、僕たちは次の場所を目指すことにした。

 次の場所をどこにするのかは朝のうちに決めていた。食堂から順番に村を回って、出会った村人に挨拶をしていく。農作業をしているアミィリアさんのおばさんとおじさんに挨拶して、そのまま村の中でも一際目立つ建物を目指す。木造の建物が並ぶ中、半分以上が石造りの大きな家。それでも目立つ部分は木の板で装飾されているので、村にあっても違和感はない。

 このイルナルヤ村で、人を案内して欲しいと言われたら彼女は外せない。外せない人物はもう一人いるが、彼女の家は村のはずれにあるから最後にした方がいい。

 黙ってついてくるイスミを連れて、扉をノックして住民を待つ。広い家だけど彼女が村に引っ越してきてから数か月、家族の姿を見たことはないから出てくるのはおそらく……。

「どなたですか?」

「ライカだ」

 扉越しの質問に答えると、すぐに扉が開けられて彼女が姿を現した。

「珍しいですわ。ライカさんから……あら、ヒノカさんまで。それに……」

 中から出てきたのは女の子。水色の髪はロングツインテールで、瞳も水色。歳は十三歳と聞いているから妹と一歳違いだけど、身長はそこそこ離れていてイスミより少し大きい。胸の膨らみはイスミに勝っているけれど、妹と同じくらいだから歳相応の大きさである。

「ごきげんよう。わたくしはスーミゥと申しますわ」

 彼女は視線を向けた相手――イスミに挨拶をして、すぐに名乗ってみせた。

「イスミです」

 スーミゥは頷いて、イスミに笑顔を向けた。その服装や話し方、そしてこの大きな家からどこかのお嬢様ではないかと思われている彼女だけど、詳しいことはまだ誰も知らない。ただ、彼女は引っ越してくる前に何度か村を見にきていて、その頃から村人とは話していたので、彼女の性格はよく知っている。

「イスミさんは、この村は初めてですわね。ヒノカとライカさんに案内されている、といったところでよろしいですか?」

「うん。お兄ちゃんが連れてきたの。スーミゥとは逆になるね」

 村にやってきた彼女と最初に会話をしたのは、僕の妹ヒノカ。似た状況ということもあってここに連れてきたのだが、その判断は正解だったようだ。

「わたくしのところまで連れてきたのは……イスミさん」

 スーミゥに視線を向けられたイスミは、小首を傾げて答える。

「なるほど。わたくしとは事情が違うようですわ。せっかくですから、お茶にでも誘おうかと思いましたが……ヒノカ、ライカさん、案内を続けてくださいな」

「そのつもりだけど、スーミゥ?」

 ヒノカの疑問に、スーミゥは笑顔を返すだけで、すぐには口を開かなかった。

「ちょっと思い出していただけですわ。わたくしが初めてイルナルヤに来た日のことを」

「そういえば、そんなこともしたっけ」

「ええ。ヒノカのお家で、お茶を頂いて、それから興味深いものも見せて頂いて」

「私、そんなことした?」

 続いた言葉に疑問を投げかけるヒノカ。僕も思い出してみたけれど、初めての日にスーミゥに何かを見せた記憶は思い出せなかった。

「隠しきれないお兄ちゃんへの愛、しっかり見せてもらいましたわ」

「私は見世物じゃないよ。お兄ちゃん、次はどこへ行くの?」

 流した。かといって僕に何かを言うことはできないし、スーミゥもいつものように――いつも以上に天真爛漫な笑顔を浮かべるだけ。仕方なく僕は妹の質問に答えることにした。

「予定通りだよ」

 それしか答えることはないのだけれど、それでヒノカが満足するならよしとしよう。

 僕たちが向かっているのは、村のはずれに建つ、一軒の家。代々イルナルヤ村に暮らす魔女の住む家だ。大樹の裏を少し歩いて、林を抜けた先にそれはあるから、直線距離なら僕たちの家から近い。けれどそこまでの道はなくて、村に住む僕たちでも油断すると迷うこともあるので、急ぐ事情がなければ迂回して向かうことにしている。

 その途中で、僕たちは一人の女性に声をかけられた。

「やあ! 貴方たち、この村の人ですね? 名前は?」

 声をかけられたのは村の入り口から近いところ。旅の衣装に身を包んだ、背の高い女の人だった。ロングストレートの銀髪に、翠の瞳。細身の体の綺麗な人で、控えめな胸の膨らみやその他も含めて、バランスよく整った体をしていた。

「ここはイルナルヤ村です」

 僕がその人をちょっと見ている間に、質問にはヒノカが答える。

「イルナルヤ……うん、情報通りですね。ありがとう。もう一つ聞きたいのですけど、この村で人が集まる場所はどこですか?」

「食堂です。ここを真っ直ぐ行ったら看板も見えると思いますよ」

 今度は僕が答えようかとも思ったのだけど、妹がすぐに答えたので出番はなかった。

「感謝しますね。それでは、また会えたら!」

 そしてその女性は軽く手を振って、村の北へと歩いていった。僕たちはその後ろ姿をちょっとだけ眺めてから、僕たちの目的地への歩みを再開する。

「お兄ちゃん、あの人」

 歩き出してすぐ、ヒノカが僕に聞いてきた。

「綺麗な人だったね。それに、結構鍛えていそうだ」

「……へえ」

 低い声が返ってきた。妹の視線が痛い。さすがにイスミに助けを求めるわけにはいかず、僕はどうするべきか迷っていたが、その間にヒノカは話の続きを始めた。

「南の方から歩いてきたよね」

「多分ね」

「お兄ちゃん、見たことある?」

「初めてだね」

「私も。もしかして、魔族の人?」

 ヒノカの質問に、僕は少し考える。僕らが見ていないだけで、北から一度この村に来て、南へ向かって戻ってきた旅人という可能性を考える。夜に村を抜けてそのまま南へ向かったとすれば、今日になって村の名前を尋ねることもあるだろう。旅人としては休息もしないで心配になるけど、急ぐ事情があったのかもしれない。

「服は汚れていないように見えたけど」

 魔族の領地から一人で歩いてきたとすれば、もう少し汚れているはずだ。と、そこまで考えて、僕はあることに気付いて妹の言いたいことを理解する。

「汚れていないからこそ、だね」

「うん。何の用かな?」

 仮に僕らが知らない間に村を抜けたとしても、普通の人族が旅をしていれば旅の装束が汚れるはずだ。それがないということは、普通の旅をしてこなかったということ。魔族の身体能力は竜族にも匹敵し、魔法の力も強いと聞く。だったら人族が苦労する南の道も、軽々と通り抜けられるんじゃないだろうか。

「魔族……」

「気になる?」

「はい」

 呟いたイスミに尋ねると、笑顔で答えが返ってきた。魔族の暮らしや考えには詳しくないけど、僕たち人族を無闇に襲うような種族でないことは知っている。イルナルヤ村に来た理由は気になるけれど、また会うことがあれば聞いてみればいい。僕たちは僕たちの目的を達成するとしよう。

 村のはずれの魔女の家。自然を活かした素朴な素材で作られた家だ。同じく林の傍に暮らしていることと、僕より一つ上と歳が近いこともあって、彼女とは何度も話したことがある。僕たちはその前に立って、扉をノックする。

 風を感じて少し、魔法で来客を確認したことに気付いてすぐ、家の中から女の子が勢いよく登場した。

「魔法少女ファリッタのお家にようこそっ。ライカ、ヒノカ、それに……誰か分からないけど可愛い女の子さんっ」

 右手に可愛いステッキ、左にサイドテールの長い髪。瞳は星色で、同じ色のリボンで彩られた髪は橙色。衣装こそ歴代の魔女の様式を多少は参考にしているらしいけれど、露出の多いひらひらした服に身を包んだ少女が現れた。身長は僕と同じくらいで、胸はヒノカやスーミゥと同じくらい。それゆえに色気というのはあまりないけど、際どい部分もあるのでちょっと目のやり場に困る。

「イスミ、彼女はこの村に住む魔女。トーファリッタだ」

「魔女の家系ですか?」

 自己紹介はやってくれたけど、彼女に任せっきりだと誤解もありそうなので、すかさず僕から補足する。

「うん、そうだけどー、ファリッタは魔法少女ファリッタだよっ。その子は初めてだから許すけど、ライカは今度魔女って言ったらいたずらしちゃうぞっ」

 可愛らしい笑顔で、軽くステッキを僕に向けるトーファリッタ。彼女の魔法によるいたずらは結構恥ずかしいので、僕は肩をすくめて答える。

「分かってるよトーファリッタ。でも、説明は正確にしないと」

「ん。ならいいよっ」

 ちなみにトーファリッタと呼ぶことは問題ないらしい。むしろ、ファリッタと気安く呼ぶと妹からの鋭い視線と、トーファリッタの照れた表情が返ってくるので気をつけないといけない。

「さてさて、挨拶も終わったけど、ファリッタに何か用かなっ。頼りは魔女の知識? それともファリッタの魔法?」

「今のところは、どっちでもないよ」

 村人が魔女の家を訪れるのは、魔女の知識や魔法を頼りにする場合が多い。もちろん魔女でなくても魔法は使えるから、頻繁に頼ることはないのだけど、魔女の家系は特に魔法の力が強い。困ったときは魔女の家を尋ねるのがイルナルヤ村の村人だ。

 魔女の一族は他にもたくさんいるそうだけど、今の時代にここまで魔女を頼りにしている人が多いのは珍しいらしい。それも当然、このイルナルヤ村は魔女がこの地に居を構えたのをきっかけに、人が集まってできた村。支配したりされたりという関係ではないけれど、そんな歴史があれば頼りにするのも当たり前だ。

「あの、ひとついいですか?」

「何かな、可愛い女の子さんっ」

 小さく手を挙げて尋ねたイスミに、トーファリッタは元気な声で答える。僕とヒノカは意外な行動に顔を見合わせたが、彼女の目的が分からないこともすぐに思い出して、黙って成り行きを見守ることにする。

「イスミです。魔法少女ファリッタさん。今この村に人族以外の人がどれだけいるか、魔法で分かりますか?」

「お任せあれっ。でもでも、人族以外って種族の指定はちょっと大変だから、少し時間はかかっちゃうよ? 夕方には分かると思うけど、その間の出入りも含めてかな?」

「はい。お願いします」

 人族以外という言葉に、彼女の興味がどこにあるのかは分かるけど、具体的な目的までは分からない。だから、振り向いたイスミに僕が聞くのは、たった一言だけ。

「案内は続ける?」

「お願いします」

 とりあえず、それだけがイスミの目的ではないみたいだった。

 空には太陽が天高く昇っている。そろそろちょうどいい時間だと思って、僕たちは再びおにぎり食堂に戻ってみることにした。今ならカラッドさんもいるだろうし、もしかすると他の村人や旅人も何人かいるかもしれない。大体は家で食事をとるけど、アミィリアさんのおにぎりは美味しいので村人からも人気が高い。

「おう、いらっしゃい。って、ライカか。なんだ、案内途中の休憩か?」

 果たして、食堂で僕たちを迎えてくれたのはカラッドさんだった。ショートヘアーの赤髪に赤の瞳。背の高いお兄さんで、幼馴染みのアミィリアさんと一緒にここで働いている。といってもおにぎりを握るのはアミィリアさんで、接客も彼女がこなすことが多いので、力仕事を中心としたお手伝いといった方が正確かもしれない。

 アミィリアさんから事情は聞いているらしく、カラッドさんは僕たちを席には案内せず、体をどけて店内を見やすくしてくれる。

「見ての通り、今日はあの二人だけだ。どうする?」

 カラッドさんの視線の先にいたのは、二人の若い男女だった。女性の方はトーファリッタの家に向かう途中で出会った女の人で、もう一人の男の人は見たことがない人だった。

 座っていても分かるほどの長身は、カラッドさんや同席する女の人よりも高い。二人は同じくらいみたいだけど、それよりも頭ひとつ分くらいは高いんじゃないだろうか。金髪のショートヘアーに、朱の瞳も印象的だけど、それよりも目に留まるのは腰にかけた一本の剣。鞘の素材や装飾を見るだけでも、凄い剣であることは何となく分かる。

 二人は席に座って会話をしているようで、僕たちに気付いても女の人が軽く笑みを見せるだけだった。僕たちも同じものを返してから、カラッドさんに向き直る。

「じゃあ、そうします。歩いて疲れたし、ヒノカもいいよな?」

「うん。行くよ、イスミ」

 僕からの提案に、ヒノカはすぐに頷いてくれた。

「わたしもいいんですか?」

「ああ。イスミも朝から何も食べてないだろ? 朝食は一緒じゃなかったし、僕たちよりお腹が空いてるんじゃないか?」

「それに、銅貨一枚ならお礼としても悪くない」

「お礼?」

 僕の言葉に続いたヒノカの言葉に、疑問を口にする。

「お兄ちゃんには秘密」

 ヒノカは僕の顔を見ながら、すぐに答えを返してきた。秘密と言われては仕方ない。それよりも今はイスミだと思い、僕たちは彼女の方を見る。

「では、お言葉に甘えます。おにぎり……美味しそうだと思ってたんです」

 どうやら、朝の時点でアミィリアさんの言葉は彼女の心に届いていたらしい。僕たちはカウンターに座って、アミィリアさんにおにぎりを注文する。離れた席に座っている二人は会話に集中しているようで、おにぎりの減りは遅い。

「はい。ちょうど炊きたて握りたての、昆布おにぎりよ」

 時間も時間なので、彼らが来たからというわけではないだろうけど、アミィリアさんは自慢のおにぎりを僕たちの前に差し出した。イルナルヤ村のお米に、ラトカ産の海苔と昆布、絶妙な塩加減の美味しいおにぎりに、イスミは笑顔をこぼしていた。

 僕たちがそれを食べ終わる頃、離れた席の二人も話と食事を終えて、席を立っていた。さほど広くない店内、断片的に聞こえてくる会話に気になる単語がいくつかあったけど、何の話をしているのかはよく分からなかった。

 詮索する気持ちはないけど、イスミといい、あの二人といい、イルナルヤ村に珍しいお客さんがこんなにいることに、僕は少し驚いていた。

「ありがとうございました。あ、そうそうライカ。タヤナさんが来ているみたいよ」

「タヤナさんが?」

 僕の問いに答えたのは、アミィリアさんではなくカラッドさんだった。

「ああ。俺が用事を済ませてるときに会ってな。お前ら、その子を案内してるんだろ? まだいると思うから、行ってみたらどうだ?」

 僕とヒノカは大きく頷いてから、イスミを連れて外へ出た。

 タヤナさんはこの村によく来る行商人だ。僕たちの両親も二人で行商をしていて、タヤナさんとは親しくしている。小さな頃からよく知るタヤナさんは村人ではないけれど、村によく来る彼女は村人のようなものと考えてもいいと思う。

 もちろんイスミが興味がないというなら、カラッドさんの両親や、他の村人を紹介して回るつもりだったけれど、彼女も承諾してくれたので僕たちはタヤナさんを探すことにした。

 といっても、彼女がいる場所は大体決まっている。この村での普段の配達といえば、アミィリアさんの食堂に、ラトカ産の昆布、海苔、そしてナホ海の塩や、竜の山脈の岩塩――おにぎりの素材を届けることくらいで、それが終わったタヤナさんは村の広場にいることが多い。

 今日もそれは変わらないみたいで、広場には琥珀色の髪をストレートに、セミロングに伸ばした女の人が立っていた。瞳も同じ琥珀色で、身長はアミィリアさんより少し高く、胸の膨らみはアミィリアさんより少し大きい。あの胸には小さい頃からよくからかわれていて、その度に妹に弁解をしないといけなくて大変だった。

「お、ライカとヒノカが一緒にいる! あたしが村を離れてる間、何かあったかな?」

 僕たちが声をかけるより先に、気付いた彼女の第一声はそれだった。

「何も。今日はこの子を案内してるんだ」

 ヒノカに任せると長くなりそうだったので、僕は先に事情を説明した。

「ふーん。あたしはタヤナ。ルル・タヤナよ。貴方は……うーん……なんか凄く親近感を感じるんだけど、どこかで会ったことある?」

「わたしはイスミです。お久しぶりです、タヤナ」

 首を傾げたタヤナさんの言葉に、イスミは笑顔で返事をしていた。

「久しぶりだね、イスミ……って、ごめん、覚えてないや。おっかしいなあ、呼び捨てで呼ばれるような仲なら、行商人として忘れるはずはないんだけど……」

 ころころと表情を変えるタヤナさんに、イスミは苦笑しながら言葉を発した。

「仕方ないです。行商とは関係ないですから」

「そう? ……んん?」

 軽い疑問から、深い疑問に変わるタヤナさん。僕とヒノカは不思議そうに二人の様子を眺めていた。イスミの秘密の中に、まさかタヤナさんが入っているとは考えもしなかった。それも行商人としてのタヤナさんではなく、ただの人してのタヤナさんが。

 じっとイスミを見つめていたタヤナさんは、時折僕たちの方にも視線を向けながら、イスミのことを思い出そうとしていた。しばらくして、タヤナさんは大きく肩をすくめて苦笑を浮かべてみせた。結果は一目瞭然である。

「では、ライカさん、ヒノカさん、他のところもお願いできますか?」

 イスミの言葉に僕たちは頷いた。久しぶりの再会でも、一方が覚えていなくて、もう一方も語ることを望まないのであれば、長話をする理由はない。

「もう行くの? その前にひとつ聞かせてもらえる?」

「何ですか?」

 明らかに僕たち兄妹に向けられた言葉に、返事をする。夕方には約束があるけど、時間の余裕は十分にある。

「本当に、何もなかった?」

「ありません。私ももう大人なので、お兄ちゃんとずっと一緒になんていません」

 ヒノカの言葉に寂しさを覚えながらも、何も言うことがなくなった僕は肩をすくめて苦笑を浮かべた。タヤナさんも小さく肩をすくめてから、微笑みながら手を振って僕たちを見送ってくれる。その様子にヒノカはちょっと不満そうな顔をしていたけど、僕の視線に気付くとすぐに普段の落ち着いた表情に戻っていた。

 それから村を一通り回って、イスミの案内を続けていく。多少の会話もしたけれど、タヤナさんとの会話を最後に、特に気になる会話や出来事はなかった。

 そして夕方。僕たちは再び魔女の家――魔法少女ファリッタに会いに来ていた。

「待ってたよっ。ちょうど調べ終わったところだから、中で話す? それとも今すぐ?」

 扉を開けて元気よく登場したトーファリッタの言葉に、僕たちはイスミを見る。案内は終わったから、ここからは全てイスミ次第だ。僕たちが一緒に聞く必要もない。

「ここでお願いします」

「了解だよっ」

 イスミの答えに笑顔で頷くトーファリッタ。イスミは他に何も言わないので、僕たちが聞いていても問題ないみたいだ。目的を話してくれるかは分からないけれど。

「イルナルヤ村にいた人族以外の種族は、四人みたいだねっ。出入りしていたのは二人か三人だよっ。一人ははっきりしてるんだけどね、今日はちょっと魔法の利きが悪いみたいなのっ。多分だけど、誰かが凄い力を込めた武器や道具でも持ってたんじゃないかな?」

 トーファリッタの報告に耳を傾けるイスミ。報告の途中だけど、彼女はそこで少し言葉を止めていたので、僕は感想を口にしてみた。

「トーファリッタの魔法より凄い武器や道具?」

「珍しいよねっ。ファリッタの家にも凄い道具はたくさんあるけど、それよりももっと凄いものなのっ。ファリッタも気になるけど、それが凄すぎてイルナルヤにあるってことしか分からないんだっ。でもでも、一つだけはっきりしてることはあるんだよっ」

 何のことだろうと僕とヒノカはトーファリッタを見る。イスミも気になって尋ねるかと思いきや、彼女は微笑んで僕たちの方を見るだけだった。

「その様子だと、話してもいいよねっ。ファリッタもさっき気付いて驚いたんだけど、人族以外の種族の一人は、ここにいるイスミちゃんだよっ」

「……なるほど」

「イスミが?」

「はい」

 トーファリッタの言葉に、僕たち兄妹が反応する。イスミは笑顔で頷いて、それが間違いでないことをはっきりと認めていた。僕もヒノカも、そのことに大きな驚きはなかった。最初の出会いから、今日一日の行動を考えると、少なくともイスミが普通の旅人でないだろうとは思っていた。

 もっとも、それ以上のことは推測が難しくて、僕たちも表情から気付いたことは理解していても、話し合うようなことはしていない。

「ライカさん、ヒノカさん。わたしにもう少し付き合ってもらえますか?」

「ああ。もちろん」

「お兄ちゃんが行くなら」

 僕たちはすぐにそう答えた。イスミは笑顔で林の方へと歩いていく。もうすぐ夜になるから林の中に入るのは危ない。でも、その問題はトーファリッタが解決してくれた。

「今から迷うと危ないよっ。イスミちゃん、ファリッタもついていっていいっ?」

「はい」

 イスミは振り返って、トーファリッタだけを見て笑顔で頷いた。暗い林の中でも、彼女の魔法があれば僕たちも安心できる。

 イスミに続いて林の中を歩く。黙って前進するイスミの足に迷いはなく、僕たちも黙って彼女についていく。太陽も沈みかけて、そろそろ月がはっきり見える時間だけど、林の中からはよく見えない。でも、どこへ向かっているのかは何となく分かる。

「到着しました」

 予想通り、イスミが僕たちを連れてきたのは、僕が彼女と初めて会った大樹と湖の傍。

「それで、僕たちをここに連れてきた理由は?」

 僕からの質問に、イスミは空を見上げて答える。空に見えるのは大樹の立派な枝と、星空に輝く綺麗な月。ただそれだけで、普段と何も変化はないように見えた。

 といっても、僕たちも夜になってここに来ることはあまりない。太陽の下では見えない何かがあって、月の下ならそれがはっきり見えるのだろうかと思ったけれど、生い茂った大樹の葉にも変わった様子は見られなかった。

「そろそろ、です。ライカさん、よく見ていてください」

「あ、うん」

 イスミはなぜか僕だけを名指ししてそう言った。僕は小さな声でしか答えられなかったけれど、よく見ていてという彼女の言葉はしっかり耳に届いている。

 そして眺め続けていた大樹に、微かな変化が訪れた。枝についていた一枚の葉っぱがひらひらと、空を舞って落ちてきていた。特に強い風が吹いたわけでもないけれど、それだけなら珍しいことじゃない。年中緑色の葉を茂らせる大樹の葉はたくさんあるから、一枚だけなら自然と落ちることだってあるだろう。

 けれど、二枚、三枚……何十枚と落ちるなんてことは、普通じゃなかった。驚いた顔で僕やヒノカがそれを見つめていると、さらに驚くことが起きた。

「……これ、って」

 僕の目の前に落ちてきた葉っぱは――枯れていた。手のひらでとってみると、枯れ葉は砕けて散って、風もないのに空に散って消えていく。

「お兄ちゃん、これ、どういうこと?」

 ヒノカの言葉には答えられずに、僕は次々と葉っぱを落としていく大樹の幹を見る。どこか力を失ったように見える幹。それは、次々と落ちては消える枯れ葉による錯覚かもしれないけれど、僕たち兄妹は困惑するだけで考える余裕はなかった。

 そんな中、トーファリッタは落ち着いた様子で状況を眺めているようだった。彼女の視線は大樹から、湖に向けられている。

 湖にも何かが? そう思って視線の先を追う。そしてすぐに、その異変に気付いた。

「ヒノカ、湖も!」

「え? あ……どうなってるの?」

 澄んでいた湖の水は、少しずつ濁っていた。どこからかではなく、どこからも。急速に濁っていく湖と、葉を枯れさせていく大樹。いや、葉っぱだけじゃないのかもしれない。幹の様子が錯覚じゃなかったら、枯れているのは大樹そのもの。

「湖濁り……大樹は枯れ……」

 トーファリッタが何事かを呟き始めた。僕とヒノカが彼女を見ると、笑顔の魔法少女は僕たちを見て言葉を続けた。

「大地……力……失われ……だったかな? 断片的だけど、ファリッタの家に伝わる、イルナルヤの伝承だよっ」

「伝承? イスミ、これは一体……」

 事情を知っていそうな女の子の名を呼ぶ。視線はさっきまで彼女がいた場所に。けれど、そこにイスミの姿はなかった。ヒノカも驚いた顔で同じ場所を見て、辺りを確認していた。僕も妹と一緒に探してみるけど、イスミの姿は見つからない。

「ファリッタも分からないよ? 上を見ている間に、どこかに行っちゃったのかな?」

 聞くまでもなく答えたトーファリッタも、イスミがどこにいるのかは知らないらしい。

「こんな状況で迷ったら大変だ。探しに……うっ」

 そう言って歩き出そうとした直後、僕の足は力を失って地面に倒れそうになった。もう一方の足に力を込めようとしても、思うように力が入らずに勢いを弱めるのが精一杯だった。

「お兄ちゃん!」

「……ヒノカ……僕なら、だいじょ」

 それ以上は、口が動かなかった。それだけじゃない。意識も急速に薄れてきて、僕の名前を呼ぶヒノカの声も、何かの魔法を使おうとしているトーファリッタの姿も、ぼんやりとしか認識できなくなっていた。

 それから数秒――多分、数秒だと思う。僕の意識は完全に途切れて、最後に見たのは僕に駆け寄ってくるヒノカの姿だった。顔はよく見えない。泣かせないようにどうにか笑顔を作ろうとしたけど、できていたかどうか。僕には分からなかった。


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