夕暮れみでぃあむうぇるだん

駆け抜けせくすてっと 番外編


「おはよう」

 栗本松弥は挨拶と同時に教室のドアを開ける。二年生に進級してクラスも替わり、教室には見慣れた顔とそうでない顔が混在している。

「おはよ、松弥!」

「松弥くん、おはよう」

 声をかけてきたのは去年同じクラスだった生徒。松弥は手を振って挨拶を返しながら、黒板に書かれた自分の席を目指す。廊下から二列目の最後尾。教室を見回しやすい席だ。

 生徒たちの多くは近くの生徒と話をしている。同じクラスになれて良かったね、というような会話の他に、初めましてという声もちらほらと。松弥は近くの席を見回すが、着席しているのは右隣の生徒だけ。名前は雨宮静海。

 席に黙って座っている彼は特に動くこともなくじっとしている。話しかけやすい雰囲気ではないので、松弥は教室内を見回すことにした。

 目を引かれたのは二人の女子生徒。ほとんどの生徒が誰かと会話をしている中、じっと座って黙っている女の子が二人いた。一人は廊下側の前から二番目に座る夕坂胡桃。もう一人は橋羽雪乃。席は右から三列目、前から三番目のダブルスリーにして教室の中心。

「珍しいな」

 松弥は呟く。進級直後の新学期。この状況で誰とも話さないでいる生徒が四人、それも少し席の離れた位置にいるというのはちょっと珍しい。けれど自分自身もその一人なのだから、不思議には思わない。それぞれに理由があるのだろう。

 松弥の場合は、以前からの知り合いはみんな遠くの席だから、わざわざ行くのも面倒。近くに座っているのも静海だけなので今は見ているだけでいい、というのがその理由だ。

 生徒の数も増えてきて、教室も次第にざわついてくる。そんなとき、透き通るような声が教室内に響いた。

「静かにして」

 その声に一瞬、生徒たちの会話が止まり、その声の主に視線が集中する。視線を向けられた少女、夕坂胡桃は平然としていて、それ以上は何も言わない。

 その態度を見てか、数秒後には再び生徒たちの話し声が教室を包む。

「静かにしてくれない?」

 今度は頼むような口調で。その声に何人かの生徒は会話をやめたり、声量を抑えたりしていたが、大半の生徒はまだ会話を続けている。

「うるさい」

 強い口調のその言葉に、誰かが息を呑む音が聞こえた。怒るのでもなく、不思議に思うのでもなく、その言葉の意味を知っているかのような反応。おそらく去年、彼女と同じクラスだった生徒のものだろう。

「うるさいから静かにして。静かにしないないら」

 胡桃は一瞬の間を置いて、

「命の保証はできない」

 物騒な台詞を吐いた。もちろんその言葉は比喩で、本気で命を奪おうなんて気はないと思うが、彼女から発せられる殺気は本物に感じられた。多くの生徒もそれに気付いたのか、教室内は急に静かになる。

 しかしただ一人、それに気付いていなさそうな男子が一人いた。左野道晴、去年松弥と同じクラスだった生徒で、色々と鈍い男だということを松弥はよく知っている。

「おい、お前。なんでお前なんかに命令されなきゃいけないんだよ」

 今にも殴りかかりそうな勢いで、道晴は胡桃の席に向かう。教室の前で話をしていたので席につくまで時間はかからない。応援するような声はなく、代わりに聞こえたのはひそひそと話す声。「あいつ、死んだな」「……そうね」「ご愁傷様」などなど。

 道晴が彼女の席の前に立ち、何かをしようとしたがそれは叶わなかった。

「うるさい!」

 九十デシベルはありそうな怒声とともに、道晴の体は机もろとも吹き飛ばされていた。近くにいた他の生徒はすでに避難している。去年同じクラスだった生徒なのは間違いない。

「まだわからないなら、次はこれでも投げようか」

 静かな声での宣告。胡桃は立ち上がり、片手で椅子を持ち上げている。長い髪が逆立っているように見えるのは目の錯覚だろうか。

「ご、ごめんなさい! もうしません、許して下さい!」

 さすがにここまでされては気付かないわけがない。道晴は吹き飛ばされたままの格好で謝った。ついでに律儀に机も直している。

 そうして静まり返った教室に、拍手とともに楽しそうな声が響いた。

「わー、すごい! これはなかなか面白いクラスになりそうだね」

 朗らかな笑みを浮かべる橋羽雪乃に同意する生徒はいない。彼女は胡桃に睨まれても、動じることなく笑顔のままだ。

「今の、なんなんだ?」

 松弥は小声で隣の席に声をかけたが、その生徒――雨宮静海は大きな音にも気付かないように、座ったまま姿勢を崩さずお昼寝をしていた。

 昼休み。朝にあれだけの出来事があった教室に残っている生徒は四人。他の生徒は昼休みが始まって数分と経たないうちに別の場所へ移動していた。

 その原因を作った夕坂胡桃、彼女に対して面白そうという発言をした橋羽雪乃、今もすやすやと昼寝をしている雨宮静海、昼休みはいつもぼけーっとしているだけの栗本松弥。結果的にではあるが、夕吹市立夕吹第一高校二年二組の教室は、この四人に占拠されていた。

 橋羽雪乃は教室内を歩き回っている。小柄な体と短い髪。いつも楽しそうな笑みを浮かべる可愛らしい顔。綺麗という感じはないが、可愛さは最上級だ。朝のちょっとずれた言動がなければ、普通に可愛い女の子として見られていても不思議ではない。

 夕坂胡桃はじっと席に着いているが、やはり気になるのか、たまに雪乃を見ているようだった。その顔は綺麗に整っていて、松弥はときたま見える横顔に目を奪われてしまう。休み時間に立ったときに見えた体も、スレンダーな体型ながら出るところは出ていたし、透き通るような声も美しい。黙っていればとても綺麗な女の子だ。

 雨宮静海は男の松弥でも嫉妬するくらいの美少年だ。高校生にしては大人びた顔立ちで、半分ほど耳を隠す髪も彼の魅力を引き立てる。高い身長で体つきもしっかりしていて、スポーツも得意そうだ。授業中は昼寝などせず真面目で、きっと頭も良いのだろう。

 栗本松弥は隣の寡黙な少年を見て、ふとあることを思い出す。頭はそれなりに良いし、運動だってそれなりにできる。性格もそれなりに良いし、顔だってそれなり。普通なら彼女の一人くらいいてもおかしくないよね。なんで彼女いないの? とは姉の栗本桜からの言葉。中学生の頃に言われたものだが、今でもはっきりと覚えている。

 それなりばっかりじゃないか、と文句を言ったが、事実だから仕方ないでしょ? と返された。そして追い討ちに、松弥の好きなハンバーグの焼き加減と同じく、ミディアムウェルダンってことだね、なんて言われた。姉はハンバーグレストラン――新鮮さが売りなので、焼き加減も指定できる――でウェイトレスを始めてから、たまにそういうことを言うようになった。

「寝るか」

 そんなことを思い出していても仕方ない。姉の言う通り、事実なのだから。そう思った松弥は、特に話す相手もいないので、隣の静海に倣って昼寝をすることにした。

 事件が起きてから二日経った木曜日。その間は何事もなく無事に過ぎ、本日最後の授業となる体育の時間を迎えた。二年生になって初めての体育の授業ということもあって、男子の多くは色々な意味で意気込んでいるようだった。

 今日の授業はバスケットボール。技術練習などはなく、準備運動を終えたら男女に分かれてチームを組み、すぐに試合をすることになった。教師にとっても生徒にとっても、最も楽な内容である。

「それじゃ、それぞれ準備ができたら勝手に始めていいぞ」

 そんな投げやりな合図とともに、それぞれの試合が始まる。そして開始数秒、体育館に歓声が響いた。雨宮静海のスリーポイント。男子だけでなく、見ていた女子のプレーも止まる。

「いつも眠っているわりには、なかなか凄いもんだな」

 歓声の中で、あくびをしながら栗本松弥は呟いた。そして走り出す。呆然と立ち竦んでいる生徒たちの脇をすり抜け、リバウンドボールを獲得。すぐさま踵を返して相手のゴールを目指す。気付いた敵チームのプレイヤーも慌ててディフェンスに動き出すが、一足遅い。素早くレイアップを狙うまでもなく、栗本松弥は落ち着いてセットシュートを決めていた。

 いつの間にか女子は試合をやめて、控えの男子たちもコートで繰り広げられる白熱した試合に視線を集中させていた。

 リバウンドボールを獲得した雨宮静海は、なんとそこからシュートを決めた。ハーフコートで狭いとはいえ、そんなことを軽々とできるのは運動神経が良い証拠だ。

 松弥は反撃に転じる。熱くなるのは好きではないが、この状況で手を抜くのは相手にも申し訳ない。しかし、相手チームでディフェンスを務めるのはバスケ部の生徒だ。先程は突然のスーパープレーに驚き、油断していたから帰宅部の松弥でも易々と抜けたが、今度はそう簡単にはいかない。

「道晴!」

「任せとけ!」

 けれどこちらのチームにもバスケ部はいる。松弥のアンダーパスを受け取ったバスケ部のフォワード、左野道晴は攻めに出る。中学時代からのライバル――今は松弥についている生徒ならいざ知らず、普通の生徒に彼の攻めを防げるはずもない。

 そのライバルが戻る時間を与えずに、素早く放たれるレイアップシュート。松弥は素早くリバウンドボールを奪おうとする。

「松弥! 前を見ろ!」

 しかし、道晴の警告は松弥の耳に届かなかった。リバウンドボールを手にした松弥は、そのまま勢い余って壁に衝突する。

「大丈夫か、栗本! 保健委員は誰だ?」

 体育教師の呼びかけに、痛みを堪えながらおずおずと手をあげたのは栗本松弥だった。

「女子の保健委員は?」

 不機嫌そうな顔をした夕坂胡桃が立ち上がる。体育館に漂う雰囲気が変わったのに気付いているのかいないのか、体育教師は表情一つ変えずに言う。

「夕坂、栗本を保健室へ」

「わかりました」

 胡桃が自分の方に歩いてくるのを見て、松弥は立ち上がろうとした。しかし思うように体が動かせず、全速力で壁にぶつかった衝撃は相当なものだったと実感する。

「手、貸そうか?」

 透明感のある声が聞こえた。ともに差し出されたのは綺麗な白い肌の細腕。この腕のどこに机を吹っ飛ばせるほどの力があるのだろう。松弥は不思議に思いながらも、その手を掴む。

「ありがとう」

 感謝の言葉に無言で腕を引っ張る胡桃。松弥は手助けのおかげで立ち上がれたが、痛みが引いたわけではない。立ち上がってすぐにバランスを崩して前に倒れ、胡桃の体にもたれかかる。顔に何か柔らかいものが当たっているように感じたが、痛みのせいで何かはわからない。

 ただ、周囲の生徒たちの声は理解できた。「あいつ死んだな」「……そうね」「ご愁傷様」などなど。前にも聞いたことのある言葉だ。そこでやっと松弥は気付く。顔に当たっている柔らかいものが、胡桃の胸であることに。しかしこの痛みの中ではどうしようもない。

 更なる痛みを覚悟して目を瞑った松弥に、生徒たちにとっても、彼にとっても予想外の言葉が聞こえてきた。

「肩も貸さないといけないか。じゃ、先生、彼を保健室に連れていきます」

「……ありがとう」

 彼女の肩を借りながら、弱々しく感謝の言葉を口にする松弥。

「保健委員として当然のことをしているだけ」

 胡桃はそれだけ言うと、松弥を連れて体育館を後にした。

 一階にある保健室につくと、保健室の先生は松弥をベッドに寝かせて大怪我ではないのを確かめた後、用事があるからと保健室を出ていった。授業が終了する頃には帰ってくるらしい。それまでの間、保健室には松弥と胡桃の二人だけが残されることになった。

「ありがとう、夕坂」

 隣のベッドに座って松弥を眺める少女に、彼はもう一度感謝した。

「感謝するのはこっちの方。おかげでうるさいところから自然に抜け出せた。去年もこういうことを期待して保健委員になったんだけど、期待外れだった。だから今年も期待してなかったんだけど、まさか初日から機会があるなんてね」

 胡桃の表情に笑顔はない。それでも松弥には彼女が笑っているように感じられた。

「それで授業に戻らずそこに座っているわけか」

「そういうこと」

 胡桃は頷く。

「それと、ごめん。その、もたれかかったとき」

 続けて松弥は、胸に顔を埋めてしまった件を謝る。わざとやったわけではないにせよ、ここは謝っておくのが筋というものだろう。

「ああ、別に気にしてないからいいよ。わざとやったと言うなら今ここで葬ってもいいけど、そんな感じはしなかったし。そんなことより、私に対して普通に話しかけるなんて珍しい。怖くないの?」

「怖いも何もあるか。そりゃ、初日のあれには驚いたけど、夕坂にもそうした理由があるんだろ? 問答無用でそういうことをするやつなら別だけど、違うのはもうわかってる」

 松弥も姉のことを馬鹿にされたら怒ってあれくらいのことをする可能性はある。シスコンではないけれど、松弥にとって姉は大事な存在で尊敬もしている。胡桃があんなことをしたのもそれ相応の理由があったなら怖がる必要はない。

「……そう」

 胡桃は小さな声で言う。表情は変わらず、驚いているのか呆れているのかはわからない。

「もし良かったら話してくれないかな。うるさいのを嫌う理由」

 自然とそんな言葉が口から出てきた。聞いたからといって何ができるのか、そもそも何かをする気があるのかも決まっていない。でも役に立てそうなことがあるならやっておきたい。中途半端かもしれないが、それが栗本松弥だ。人への干渉もミディアムウェルダンである。

「栗本に話す理由はない。――けど、気持ちだけは受け取っておく」

「そうだよな。急に悪かった」

 それ以上の詮索はしない。気持ちを受け取ってもらえただけでも充分だ。

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴るまで、保健室は沈黙に包まれていた。胡桃は教室に戻り、数分後に保健室の先生が帰ってきた。松弥は若干痛みが残っていたので、このまま保健室で休むことにした。

 三階の教室に戻って、帰り支度をすることを考えると億劫になる。誰かが持って来てくれればいいが、それは期待できない。男の友情はこういうときにはあまり役に立たないものだ。ぼんやりと窓の外を眺める松弥の目に、赤く染まった空が映る。どうやら休んでいるうちにいつの間にか眠っていたようだ。

 痛みはもうない。松弥はベッドから降りると、保健室の先生に礼を言う。そのまま保健室からから出ていこうとする彼に、後ろから声がかかる。

「栗本、どこ行くの?」

 この透き通るような声は夕坂胡桃だ。振り返ると、胡桃はベッドに座って松弥をじっと見ていた。彼女の座るベッドには、鞄が二つ。ついでに彼の制服も置いてある。

「どうしてここに?」

「調子を見に来たら寝てたから、待ってた」

「それはありがたいけど、俺ならもう大丈夫だ。一人でも帰れるぞ」

「でも、保健委員だし。それに先生に聞いたら、栗本の家は私の家の近くみたいだし。送ろうか?」

「……誤解されたらどうするんだよ」

「誤解? 別に誤解されたっていいじゃない。後で弁解すれば」

 胡桃は一瞬だけ疑問の表情を浮かべたが、表情を戻すと思案する素振りも見せずにきっぱりと言い切った。

「そりゃそうだけどさ。……ま、いいか」

「うん。だから、トイレ行くなら早く済ませて、さっさと着替えて」

「了解。これ以上待たせたら――」

 喋っている暇があるならさっさと行動してとでも言いたげな視線を送られて、松弥は言葉を止める。トイレは問題なかったので素早く着替えを終わらせて、二人は帰路につく。

 二人は会話をしながら帰り道を歩いたが、特に盛り上がるような話題もなく、松弥も胡桃も突っ込んだ質問はしないので、一言二言で会話が途切れる。それ以上の会話が続いたのは、胡桃が松弥の制服を持ってくるときのエピソードだけだ。

 そして別れる直前、松弥はちょっと驚くことになる。夕坂胡桃の家は、栗本松弥の家の裏にあった。

 翌日。金曜日の昼休み。今日も今日とて教室には四人だけ。いつもと違うのは、栗本松弥が夕坂胡桃を視界の中心に捉えていること。昨日のことが気になっていても、声をかけるわけにもいかないのでこうしている。誰かに相談しようにも相手がいない。姉に相談してもからかわれるのは目に見えているし、友人に相談するわけにもいかない。

 そうしてぼんやりと眺めている彼の肩を、誰かが叩く。振り返るよりも早く声が聞こえる。

「ね、栗本くんだったよね? ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

「橋羽?」

 振り返った先にいたのは橋羽雪乃。小柄な少女の問いかけに、特に断る理由もない松弥は承諾する。

「ここじゃ話しにくいから、ついてきてくれる?」

「ああ、構わない」

 雪乃に連れていかれた場所は校舎の屋上だった。春先でまだ涼しい季節、二人の他に人の姿はない。彼女は屋上の端まで歩いて、松弥を手招きする。フェンス越しの光景にふと目をやると、校門から校舎へと続く並木道が見えた。

「昨日ね」雪乃が口を開く。「ここから見ていたんだ」

 ここから見える景色と、昨日という言葉。それだけで話の内容は大体想像がつく。松弥は黙って言葉の続きを待った。

「夕暮れ時だったかな。夕坂さんと栗本くんが並んで歩いているのを見たのは」

「橋羽が想像しているようなことはないぞ」

 ここだ、というタイミングで松弥は用意していた言葉を口にする。

「そう言うと思ったよ。でも、果たして君の言うあたしの想像しているようなことは、本当にあっているのかな?」

「付き合っているのかとか、告白したのかとか、そんなところだろ」

 もちろん松弥もその可能性がゼロだとは思っていなかったので、思っていたことを答える。

「甘いよ、栗本くん。あたしの想像力はその程度じゃないよ。実は血が繋がっていたとか、彼女の秘密を知ってしまったとか、そういうのだよ」

「そんな漫画やアニメみたいな展開……いや、夕坂だしな」

 呆れ顔でそう言った松弥だが、初日の行動を見るとそれくらいの想像をしてもおかしくはない。もちろん、彼女の想像は飛躍しすぎだとは思わなくもないが。

「けど残念ながら、面白い話は何もないぞ」

「なんだ。つまんないの」

 途端に興味を失ったように声のトーンを落とし、ふくれる雪乃。話は終わりみたいなので帰ろうかと思った松弥だったが、ふと思いついたことがあった。昨日のことをある程度知っていて、わざわざこの場所に連れてきて聞いた雪乃になら、胡桃のことを相談できるのではないか。

「俺からもいいかな?」

 前置きしてから、松弥は昨日のことを詳しく話そうとする。雪乃は、長くならないならいいよ、と快く承諾してくれたので、彼は保健室や帰り道での出来事を彼女に伝える。

「……好きなの? 夕坂さんのこと」

 そして返ってきた答えはこれ。姉が相手なら説明してもほとんど効果はないだろうが、雪乃に対してなら試みる価値はある。

「自慢じゃないが、俺は人を本気で好きになったことはない。ミディアムウェルダンだ」

「みでぃあむうぇるだん?」

「あと一歩で決意が足りない。ミディアムみたいな優柔不断じゃないけど、ウェルダンにはなり得ない。そんなところだ」

「焼き加減で例えるなんて、ステーキ好きなの?」

「いや、ハンバーグだ」

「とにかく、好きだから知りたいってわけじゃないんだね?」

 松弥は頷く。当然、次に続くのはこの一言。

「じゃあなんで知りたいの?」

「何となくだ」

 その答えに雪乃は微笑みを見せる。そしてすぐに次の言葉を放った。

「わかった。相談に乗ってあげる。その代わりに頼みたいことがあるんだけど、土曜日空いてる?」

「特に用事はないけど」

「それじゃあ、買い物に付き合ってくれない? 荷物持ちとして」

「相談に乗ってもらえるなら、御安い御用だ」

「ありがとう。本ってたくさん買うと重いんだよね」

「ちょっと考え直させてくれないか」

「あたし、読書家じゃないから本はあまり買わないけどさ」

 それからも流れるように会話が続く。うやむやにされてとてつもなく重い荷物を持たされたらさすがに割に合わないので、そこまで重いものじゃないよ、という確約を得たところで、話は待ち合わせの詳細に移る。

「場所と時間は?」

「午前十時に夕吹第六公園の噴水前で」

 まるでデートの約束でもするかのように、雪乃は楽しげな顔で指定した。

 そして土曜日。朝十時。夕吹第六公園噴水前にて。夕吹第六公園は駅付近にある公園で、その噴水は夕吹市の象徴となっている。目立つ場所でもあるので、待ち合わせ場所としても有名だ。

 栗本松弥は三十分ほど前に公園についていた。ほぼ同じ時間に、橋羽雪乃も到着する。予定より早いが律儀に十時まで待つ必要はない。揃ってすぐに二人は出発した。

 目的地は駅前にある夕吹ショッピングモール。多くの店が並び、夕吹市に住む者にとっては欠かせない場所だ。松弥は頼まれた荷物持ちの役目を果たしながら、ふと気になる人物の姿を見かけた。

「あれ、静海じゃないか?」

 ファンシーショップの前に立っているのは、間違いなく同じクラスの雨宮静海だ。ガラス越しに店内をじっと見つめている。

「名前で呼ぶんだ。どうやらただならぬ仲のご様子で」

 にやにやしている雪乃の言葉を無視して眺めていると、静海は店の中に入っていった。

「彼女へのプレゼントかな?」

「雨宮くんに彼女なんているのかな。去年同じクラスだったけど、そんな噂は聞いた事がないよ」

「そうなのか?」

「うん。告白した女の子は何人も知ってるけど、みんな振られたみたいだし」

「そうなのか」

 春休みの間まではわからないけど、と雪乃は付け加えたが、夏や冬ならともかく、特にイベントもない春休み期間に恋人ができるという可能性は低いだろう。

「ま、気になるなら後で聞けばいいじゃない。席、隣でしょ?」

「そうだな」

 昼頃には買い物も終わり、松弥と雪乃は近くのファミレスに向かう。出発してすぐに、相談はどこかで昼食をとりながらと決めていた。

「保健室で夕坂さんと二人きりになって、色々話をしているうちに二人はそのまま……って話だったよね」

「忘れたならもう一度話そうか」

「冗談だって。うるさいのを嫌う理由を聞いても答えてくれなかったって話でしょ。栗本くんだから話せなかったってことかな……」

「親しくないからってことか?」

 松弥は疑問を口にする。普通に考えたら最初に思いつくのはそれだ。

「それもあるけど、男の子だから話しにくいってのもあるんじゃないかな。というわけでさ、あたしから聞いてみようかと思うんだけど。あ、栗本くんの名前は出さないから安心していいよ」

 パスタを口に運びながら、雪乃は提案する。松弥にとってはありがたい話で、ここで断る理由はない。だから素直に感謝の言葉を。

「ありがとう」

「任せといて。あたしの巧みな話術で、彼女の好みを聞き出してあげるから」

 松弥はハンバーグに勢いよくフォークを突き刺し、雪乃を睨みつける。

「冗談だって。でもあたしも暇じゃないし、条件があるんだけど」

「また買い物に付き合えと?」

「そういうこと」

「今日と同じくらいなら御安い御用だ」

 次は重い物を頼まれるわけではないことを確認しつつ、松弥は答える。

「もちろん。月曜日には聞いてみるつもりだけど、あまり期待はしないでね」

 こうして相談は終わり、二人は食事を終えて帰路につく。松弥と雪乃の家は近くはないが、遠いわけでもないので荷物持ちの役目は彼女の家まで続く。

「途中まででもよかったんだけど、ありがとうね」

「ここまで持ったんだ。中途半端にやめる気はない」

 帰り道の会話。雪乃は驚いたような顔で松弥を見る。けれど、すぐに表情を戻して言う。

「そういうところはウェルダンなんだ」

「もしそうなら、俺は今日の機会を利用して橋羽と仲良くなろうとしてたな」

「あー。なるほどね」

 雪乃は納得したように頷く。今日、栗本松弥がしたのは荷物持ちと相談だけで、それ以外に雪乃に対して積極的に何かを聞いたりするようなことはなかった。弾んでいた会話も、発端はほとんど彼女からだ。

「あたしより夕坂さんに興味があるから、ってわけじゃなかったんだね」

「否定できないのが辛いな」

 橋羽雪乃より夕坂胡桃に興味がある、という点は間違いではないので松弥はそれ以上言えなくなる。けれど、このまま受けに回るのも癪なので今度はこちらから話題を振る。

「静海には彼女がいないみたいだけど、橋羽にも彼氏はいないんだよな?」

「いたとしたら、今日のは浮気になっちゃうね」

 朗らかに笑って雪乃は言う。そして松弥の続く言葉を待たずに、聞かれるであろうことに答えた。

「告白されたことは何度かあるよ。でもあたし、好きな人がいるからね。その人に告白してもらうの待ってるんだ」

「橋羽は自分から動くタイプだと思ってた」

「失礼だなあ。あまりにも遅かったらそうするつもりではあるけど」

 そうこうしているうちに、二人は雪乃の家に到着する。家の前で荷物を渡して、挨拶をして帰ろうと思った松弥に雪乃が声をかける。

「今日はありがとね。ごほうびあげる」

 荷物を持ったまま雪乃は駆け寄り、松弥の左頬に顔を近づける。軽く触れる唇。突然ほっぺにキスをされた松弥は、驚きつつも少し照れてしまい動けなくなる。

「それじゃ、またね!」

 そんな松弥の反応を楽しんでいるような笑顔を見せて、雪乃は踵を返して自分の家に戻っていく。その後ろ姿を眺めつつ、松弥は彼女の唇が触れた箇所に手をあてる。そして苦笑を浮かべると、小さな声で呟いた。

「橋羽らしい挨拶だな」

 月曜日の朝、栗本松弥はいつもより早く目を覚ました。早く起きたからといって家で出来ることは限られる。松弥は早めに家を出ることにした。

「行ってきます」

 早朝の太陽は低く、朝日が眩しい。空気も澄んでいるようで見慣れた景色も違って見える。

「さて、今日はあの日か」

 雪乃が胡桃に聞くと言ったのは今日、月曜日だ。聞くのはおそらく昼休み。朝は他の生徒も多いし、放課後は聞けない可能性もある。その点、四人しかいない昼の教室なら問題ない。

「あの日って、栗本は男でしょ?」

 松弥の後ろから鈴を転がすような声が聞こえた。こんな綺麗な声を出せる人を彼は一人しか知らない。夕坂胡桃だ。松弥は振り返って答える。

「そういう意味じゃない。それより、夕坂はいつもこの時間に?」

「まあね。朝は静かだし」

「うるさいのを嫌うゆえの行動、といったところか」

「うん。それよりも昨日――といっても深夜なんだけど――ゴルフ中継見た?」

 松弥は首を横に振る。そもそもやっていたことさえ知らなかったのだから当然だ。

「そっか。仕方ないな、私が教えてあげる。ほら今から学校に行くんでしょ? さっさと行こうよ」

 頼んでもいないのにそう言い出した胡桃に、松弥は何も言わずに頷く。声のトーンで彼女の機嫌が良さそうなことはわかるし、下手なことを言って機嫌を損ねると雪乃に迷惑がかかる。

 誰かに見られたら誤解されるんじゃないかとも考えたが、前も気にしないと言っていたから今回も答えは同じだろう。

「それでね、昨日の豊崎選手のアプローチが凄かったの。ラフから九十ヤードのチップインイーグル! 最終的にはエイトアンダーで三位になったんだから。周りのレベルを考えると快挙だよ快挙!」

 胡桃の表情はとても楽しそうだった。笑みこそ浮かべていないものの、テンションの高さからそう見えてしまう。

「ゴルフ、好きなのか?」

「あんなに静かに白熱するスポーツなんて他にないでしょ。栗本は?」

「嫌いじゃないけど、特に詳しくないな。やる機会もないし」

「そう。ならやってみたいとは思わない? 私、ゴルフ同好会に入ってるんだけど」

「帰宅部じゃなかったんだな」

 松弥は保健室での一件から部活や同好会には所属していないと予想していたが、どうやら違ったらしい。

「平日に集まるのは水曜日だけだからね。休みの日にはゴルフ場に行くこともあるかな。六人いるんだけど、実際にラウンドするのは三人だけ。唯島先輩に、私、それと雨宮くん。たまに顧問の有谷先生が参加することもあるかな」

「やけに饒舌だな」

 松弥はあっけにとられて、それだけしか言えなかった。

「迷惑だった?」

「いや、そうじゃないよ。それで、勧誘の件なんだけどさ。断るよ。そこまで好きじゃないしな」

「そう、残念。でも入りたくなったらいつでも言って。唯島先輩に紹介するから。詳しくなくても私たちが優しく教えてあげるから。私だって、唯島先輩に誘われるまで全然知らなかったし」

「ああ、覚えておくよ」

 それから学校へ着くまでの十分ほど、胡桃は昨夜のゴルフのことを話し続けていた。松弥は聞いているだけだったが、それでも彼女にとっては満足だったらしい。ただひとつ彼が気になったのは、胡桃はとても楽しそうに話しているのに、一度も笑わなかったことだ。

 微笑みらしきものは何度か浮かべたように見えたが、気のせいかもしれない。うるさいのを嫌う理由と何か関係があるのかとも考えたが、単に親しくないからという可能性が一番有力だろう。

 松弥がぼんやりとそんなことを考えていると、胡桃が声をかけてきた。

「栗本、校門にぶつかるよ?」

 松弥は足を止める。いつの間にか学校についていたらしい。

「ありがとう、夕坂」

 松弥は礼を言う。

「気をつけて。ぶつかるのは体育のときだけでいいから」

 気遣っているのかそうでないのかよくわからない返事だ。しかし、胡桃の声色と表情を見れば、気遣う気持ちがあることは充分に読み取れる。

 そんなこんなで二人は無事学校に着き、午前の授業を終えて昼休み。

 雪乃は約束通り、胡桃に質問をしていた。松弥はすることもなくそれを眺めていたが、そこでふと思い出す。土曜日、隣の雨宮静海がファンシーショップに入っていたことを。今日の静海は起きているので、松弥は聞いてみることにした。

「静海、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」

 静海はちらりと彼の方を見る。そこでひとつの大きなあくび。

「眠いから用件は手短に」

「土曜日のファンシーショップ」

 手短にというので、松弥は必要最低限の単語で伝える。静海はそれで理解したらしく、ぽんと手を叩いて口を開いた。

「ぬいぐるみを買った。好きなんだ、ぬいぐるみ」

 それは決して大きな声ではなかった。しかし、四人しかいない教室ではそれを聞き逃す方が難しい。雨宮静海に残りの三名の視線が集中するのは当然のことだろう。

「ぬいぐるみ、嫌いか?」

 何も答えないのをそういう意味だと受け取ったらしく、静海は悲しそうな声で聞いた。

「いや、そういうわけじゃない」

 松弥は慌ててそう答える。

「そうか」

 静海はほっとしたように息をはいた。

 聞いたのは自分とはいえ、いきなりぬいぐるみが好きと言われてもどう返事をしていいのかわからず、松弥は次の言葉を必死に探すが見つからない。

「あたしも好きだよ、ぬいぐるみ」

 そこに突然飛び込んできたのは橋羽雪乃。胡桃は不思議そうに三人を見ている。

「好きなぬいぐるみの種類は?」

「くまさん」

 微笑んで答える雪乃。松弥は夕坂のことはどうしたと目で訴えかけてみるが、効果はなかった。

「ふむ、くまさん段階か」

 静海の会話にはついていけそうにない。そう思って松弥は相手を変える。目でだめなら直接聞くしかない。

「おい、橋羽。夕坂はどうした?」

「話してくれなかったからこっちに来ただけだよ」

 松弥が耳打ちすると、雪乃も小声で答えを返す。

「そうか」松弥は答えると、小さく独りごちる。「仕方ない、夕坂には俺からもう一度」

「私がどうかした?」

 松弥は声に慌てて振り向く。そこにはいつからいたのか、夕坂胡桃が立っていた。怪訝な顔で松弥を見下ろしている。それから小さく息を吸ったかと思うと、

「――うるさいんだけど」

 透き通るような声で言った。静海は無言で胡桃を見上げ、雪乃は苦笑を浮かべる。

「暴力反対」

 そう言ったのは松弥だった。静海と雪乃も小さく頷いて、同意を示している。

「ま、今日は機嫌がいいから許してあげる。私も暴力は嫌いだしね。初日のあれは特例だから気にしないで。ね、雨宮くん?」

「そういうことにしておこう」

 どうやら特例は一度だけではないようだ。返事に納得がいかない様子の胡桃に、静海は続けて言う。

「ところで、夕坂はぬいぐるみを愛しているか?」

 予想もしていなかったであろう返しに、彼女はあっけにとられて言葉を失っている。無論、それは松弥も同じだ。

「嫌いじゃないけど、愛ってほどでも……」

「良かった」

 嬉しそうに呟く静海。結局、その日の昼休みはぬいぐるみ談議だけで終わることになる。昼休み終了間際に戻ってきたクラスメイトたちは、固まって盛り上がる四人の姿を見て、皆一様に驚きの表情を浮かべていた。

 ――そして、この日を境に彼らの高校生活は一変した。

「松弥、お前何か悪いことしてないよな?」

「何の話だよ」

 突然そんな失礼な言葉を投げかけたのは左野道晴。四人が盛り上がっている姿をクラスメイトに目撃された、その日の放課後のことだった。

「お前が夕坂と仲良くなった理由だよ。そうとしか考えられん」

「それは仲良くなるじゃなくて脅迫だろ」

 松弥は軽くいなす。助けを求めて本人の席を見ると、彼女も別のクラスメイトに声をかけられているようだった。残りの二人も似たような状況で、誰かに話しかけられていて対応していた。

「夕坂さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「起きてるか静海? おーい……」

「いやだから、今はその話じゃなくって。私が聞きたいのは……」

 もっとも、他の三人を相手にしている生徒たちは相当苦労しているようだが、松弥にとってはこの状況をどう切り抜けるのかが問題だ。確かに四人で会話をしていたのは事実だが、特別仲が良くなったから会話していたわけではないので答えに困る。

 かといって、保健室での一件やその後の出来事は誰にでも気軽に話せるものではない。

「やっぱり、何か言えない理由があるんだな」

「あー。それより部活はいいのか?」

 質問をはぐらかしつつ言うと、道晴ははっとして教室から出ていく。

「続きは明日な!」

 という去り際の一言を残して。その間に、他の三人もそれぞれの対応でクラスメイトの追及を逃れていた。

「なんか面倒なことになったねー」

 周りに人がいなくなったところで、雪乃が松弥たちの席に近づいてくる。彼女に腕を引かれているのは胡桃だ。特に抵抗もせずに引かれるままにされている。

「誰かが変なことを聞いたせいでね」

「ぬいぐるみは悪くない」

「夕坂だって自分から来ただろ」

 言葉はややきついが、みんなため息混じりに話していて、誰かに責任を押し付けようとしているわけではない。

「とりあえず、ほとぼりが冷めるまで一緒にいない? そうすれば迂闊に近寄って来ないと思うんだ」

「悪巧みするみたいだな」

 松弥は呟いたが、提案には賛成だ。胡桃は諦めたような顔で、そうするしかなさそうね、と答え、静海は小さく頷く。この場に雪乃の提案に反対する者は誰もいなかった。

 できれば四人で集まり、それが無理でも二人一組となり、なるべく一人にならないようにする。その作戦は功を奏し、クラスメイトの追及はほぼ抑えられた。

 それでも聞いてくる生徒も何人かいたが、日を追うごとにその数も減っていき、最終的には一人になっても追及されることはなくなった。根負けしたというよりも、最初の驚きが薄れると興味も薄れたというだけのことだろう。

 しかし、そうなっても栗本松弥、夕坂胡桃、雨宮静海、橋羽雪乃の四人は自然と集まるようになっていた。一時的とはいえ、一週間以上も続けばそれがちょっとした習慣となるには充分である。

 そんな生活が続いて五月が訪れる。五月最初の休日、ラフな格好をした栗本松弥がいるのは夕吹第六公園の噴水前。今日の待ち合わせ相手は何度か荷物持ちを頼まれた雪乃ではない。

 待ち合わせをしているのは四人。松弥、胡桃、静海、雪乃の四人だ。三人で胡桃を誘ったときは断られるのではないかとみんな心配していたが、意外にもあっさりと承諾してくれた。

 彼女曰く「周りがうるさいのは嫌だけど、自分もその中にいるならあまり気にならないから大丈夫」だそうだ。「もっとも、用事があるときは一人でもいけるけどね。ある程度は我慢できないと落ち着いて生活してられないし」と続いた言葉に、松弥たちは曖昧に頷くしかできなかった。

 目的は前と同じ、駅前の夕吹ショッピングモールでの買い物。といっても、どこへ行くと予め決めているわけではなく、いろんな店をぶらついたり、ゲームセンターに寄ったり、気の向くままに歩き回って遊ぶ予定だ。

「早いんだ」

 松弥が振り向くと、そこにはブラウスの上にカーディガンを羽織、ロングスカートをはいた夕坂胡桃の姿があった。初めて見る私服姿に自然と視線が留まる。

「普段はそんな服なんだ」

 それは胡桃も同じようで、特に嫌がる様子は見せなかった。

 次に到着したのは橋羽雪乃で、松弥と二人で買い物に行くときよりも可愛らしい服装だ。同じなのはミニスカートをはいていることくらいで、与える印象も大きく違う。

「まるでデートにでも来たみたいだな」

「四人で初めての記念日だしね。でも栗本くん、その発言はアウトだよ」

「アウト?」

 松弥はそこで初めて胡桃が訝るような視線を二人に向けていることに気付く。こうなっては仕方ないと、松弥は以前に荷物持ちを頼まれたことを彼女に伝えた。もちろん、相談のことは伏せておいたが、そうするとなんで引き受けたのかという疑問が浮かぶのは必然。

「栗本くんがね、恋の相談をしたいって」

「ちょっと待て」

 助け舟を出してくれた、と任せていたらとんでもないことを言われたので松弥は慌てて否定する。しかし、そうすることでさらに質問が来ることを覚悟していた松弥だったが、胡桃はそれ以上この話題を広げることはしなかった。

「……栗本くん」

「その目はやめろ」

 好意を寄せている相手に興味なさそうにされてかわいそう、というような視線を送ってきた雪乃に松弥は言う。そうしているうちに、最後の一人も到着した。

「すまん、待たせた」

 待ち合わせ時間ギリギリに到着したのは雨宮静海。彼も松弥と同じくラフな格好をしているが、着こなしはワンランク上で格好良く見える。

「揃ったみたいだし、行きましょうか」

「がんばってね、栗本くん!」

「荷物持ちはやらないぞ」

 無視したり普通に突っ込むだけではつまらないので、松弥はちょっとひねった返しをしてみる。すると雪乃は、少し考えるような素振りを見せてからこう言った。

「じゃあ雨宮くん、もし重いもの買ったらお願いできる?」

「橋羽の頼みなら」

 言ってあっさりと引き受ける静海。松弥は一瞬何かを言おうとしたが、また蒸し返されては面倒なので放っておくことにした。

 出発していくつかの店を回った後、ゲームセンターで特筆すべき出来事が起こる。彼らの前で初めて夕坂胡桃が笑った。微笑みではなく、心底楽しそうな笑みだった。

 ついでに雨宮静海も笑みを浮かべ、栗本松弥にとっても彼らの前で心から笑ったのは初めてかもしれない。

「わ、笑わないでよ!」

 一人、ふくれっ面でそう言ったのは橋羽雪乃。場所はゲームセンターでのこと、とあるゲームに自信満々で挑戦を受けた彼女だったが、他の三人に連戦連敗。松弥はそこそこ得意だと言っていたからいいとしても、残りの二人に至ってはビギナーズラックに近い。

 いつも楽しそうに笑っている雪乃が怒り、他の三人が笑った珍しい光景である。

「まあいいか。みんなの笑った顔が見れたし」

 最初は恥ずかしさやショックなどの感情がない混ぜになって怒った雪乃だったが、冷静さを取り戻すとすぐにそんなことを言って、目を細めた。

 たまたま雪乃の調子が悪く(というのは本人の談)、初めての二人も初めてにしては上手にできた。いくつかの偶然が重なって起きた出来事は、四人の関係に進展をもたらした。、

 それまで一部を除いて、やや他人行儀に名字で呼び合っていた四人は、この日の出来事をきっかけに――もちろん他の場所の出来事も少なからず影響を与えてはいるが、一番はこれの他にないだろう――名前で呼び合うようになる。

 誰かがそうしようと言ったから、そうして欲しいと言ったからではなく、胡桃が最初に名前で呼んだことで自然とそういう雰囲気になっていた。ちなみに、最初に彼女が名前を呼んだ相手は松弥だったが、話の流れで直後に静海や雪乃の名も口にしたので、特にからかわれるようなことはなかった。

 五月半ばの金曜日。放課後、松弥は中庭にいた。何となくもう少し学校にいたいと思い、空をぼーっと眺めていたところに、胡桃がやってくる。

「ここにいたんだ」

「何か用か?」

 胡桃は明日、土曜日に四人で買い物に行く詳細について、念のため確認しておきたいと思って松弥を探していたという。

「珍しいな、胡桃が念のためなんて」

「何となく、ね。そんな気分になっただけ」

「そうか」

 同じ理由でここにいる松弥にはその気持ちがよくわかった。五月病というわけではないが、今日の陽気は何となく行動したい気分にさせるものらしい。

「放課後に二人で逢引なんて、羨ましいな」

 やってきたのは雪乃だった。反射的に口から出たような冷やかしは軽く無視して、松弥たちは返事をする。

「雪乃も何となくか?」

「二人はそうなの? でもあたしは違うんだ、松弥くんに用があって」

「俺に?」

 雪乃の目的を知って不思議そうな顔をする松弥。胡桃は自分に用がないのならと、興味を失ったように落ち着いた声で答えた。

「私、少し離れてるから」

 胡桃の中庭の外れ――ここでの会話が聞こえないところに移動したところで、雪乃が用件を口にする。

「胡桃と何の話してたの?」

「まだ続けるのか」

 一人いなくなってからも続けられた冷やかしに、松弥は呆れたように突っ込む。しかし、雪乃は真剣な顔でかぶりを振って言う。

「冷やかしじゃないよ。あたし、本気で気になるんだ」

 滅多に見ない真剣な雪乃の姿に、松弥は驚きながらもただの確認だと告げる。すると雪乃はほっとしたように微笑んでみせた。

「ね、松弥くん」

 そして言う。やや俯きながら、いつもより小さな声で。

「まだはっきりとは言えないんだけどさ、あたし、君のことが気になってるんだ。意味は、言わなくてもわかるよね?」

「それだけか?」

「うん。とりあえず、覚えておいて欲しいかなって。迷惑じゃないよね?」

「ああ。他にないなら、俺は行くから」

 言って松弥は逃げるようにその場を後にする。話が終わったのを見て戻ってきた胡桃には、後は任せたという一言だけを残して、詳しい説明はしない。胡桃は不思議そうな顔をしながらもその頼みを承諾してくれた。

 校舎に戻った松弥は歩きながら、先程の雪乃の言葉の意味を考えていた。普通に解釈すればそういう意味なのだろうが、はっきり言っていないのだから確証はない。

 誰か相談できる相手がいないかとうろついていると、図書室で目を瞑っている静海の姿を見つけた。肩を叩くと目を覚ましたので、ここではなんだからと場所を移して松弥は先程のことを彼に相談する。

「俺からも言うべきことがある」

 黙って話を聞いていた静海が最初に口にした言葉はそれだった。表情はいつになく真剣で、松弥は黙って言葉の続きを待った。

「俺は雪乃のことが好きだ」

「それで?」

「告白はしていない。もし振られでもしたら、耐えられない。それより、松弥はどう思っているんだ?」

 静海の質問に、松弥はどう答えたら良いか迷う。彼の質問の意味はわかっているが、素直に答えていいものかどうか。そして彼の出した結論はこうだった。

「静海には言えないな。告白もしてないなら、対等とは言えないだろ?」

 はぐらかすわけではないが、ちょっと意地悪な答え。けれど今はこうするのが最善だと思えた。声のトーンはいつも通りで、冷静に告げる。

「俺が答えるのは対等になってから、ということにしておく」

 最後の締めはやや曖昧に。今の松弥には、はっきりと言うだけの自信がなかった。

「……そうか」

 静海は小さな声でそう言い残すと、話は終わったとばかりに何も言わずに去っていった。

 静海と別れた松弥がそろそろ帰ろうかと廊下を歩いていると、中庭から出てくる胡桃と出くわした。ちょうど彼女も帰ろうとしていたので、二人は一緒に下校することになる。

 帰り道、松弥は胡桃にも相談してみる。雪乃から聞いたことと、静海から聞いたこと。その全てを話された胡桃は、考える素振りも見せずに即答した。

「そういうの、気軽に話しちゃだめだと思う」

「普通なら、な」

 その反応は予想済みだったので、松弥は用意していた答えを返す。

「松弥は普通じゃないからね」

「いや、そういう意味じゃなくてだな」

「ともかく、その話に私は関係ないんだから、三人で勝手にやってよ。今後どうなるかわからないけど、誰かの肩を持つような真似をすると後で面倒そうだし」

 一方的に話を打ち切られて、松弥はこれ以上この話を続けることを諦める。ここまでまくしたてられると思ってはいなかったが、胡桃と雪乃が二人きりだったときに話した内容によっては、この反応も不思議ではない。

「そうだな、わかったよ」

 もっと詳しく説明をすればちゃんと相談に乗ってくれるかもしれないが、帰り道に会話できる時間は限られている。松弥はこの件については別の相手に相談することにした。

 その後は特に会話もなく、別れ際に明日の約束について再確認をしただけだった。

 土曜日の待ち合わせ場所も、夕吹第六公園噴水前。待ち合わせ時間は午前十時だが、松弥は三十分以上前に到着していた。次に胡桃、静海と集まり、最後に到着したのは雪乃だった。

 昨日の出来事もあってか、ぶらついている間の口数はいつもより少ない。三人が当事者であり、胡桃も事情を理解しているので誰も文句や不満を口にすることはなかった。

 一通りの買い物を終えて、四人は昼食をとることにする。場所は連れて行きたいところがあると松弥が言い、誰も反対しなかったのですぐに決まった。松弥が案内した店は、ハンバーグレストラン『紅葉』。ショッピングモールから少し離れた路地裏にある、落ち着いた雰囲気のレストランだ。

「ここ、高いんじゃないの?」

 店の外観を目にして、胡桃が言った。

「確かにランチタイムでも他の店よりはちょっと高いな。でも、これがある」

 松弥がポケットから取り出したのは割引のクーポン券だ。一度に四人まで使えるものなので全員に割引が適用され、ランチタイムなど他のサービスとの併用も可能だ。

 松弥を先頭にして店に入ると、ウェイトレスが出てくる。セミロングの髪の綺麗な女性だ。

「いらっしゃいませ。お一人様ですね。ご案内します」

 松弥の姿を見つけたウェイトレスは、笑顔とともにそう言うと、振り返って彼を案内しようとする。

「ちょっと待て。後ろ」

 声に振り向いたウェイトレスは後ろにいる三人の姿を見つけると、一瞬驚いたような顔をしてから、再び笑顔で言い直した。

「四名様ご案内」

 四人が案内されたのは窓際の席だった。ランチタイムであるものの、やや目立たない場所に位置するのもあってか、それほど混雑している様子はない。

「松弥くん、ここにはよく来てるんだ?」

「ああ」

 ここまでの態度を見れば当然の質問に、松弥は答える。少しして、全員の注文内容が決まったのでウェイトレスを呼ぶ。

「焼き加減はどうなさいますか?」

 ウェイトレスの質問に、胡桃はウェルダン、雪乃はミディアム、静海はレアを選ぶ。松弥が選ぶのはもちろんミディアムウェルダンだ。

 注文した品が届くまでの間、松弥は席を立つ。静海の「トイレか?」という質問には、そんなところだと曖昧に答えておく。松弥が向かったのはトイレではなく、ハンバーグレストランの裏、普通なら従業員しか入れない場所だが、鍵がかかっているわけではない。

 そして目的のウェイトレス――姉である栗本桜を休憩室で見つけた松弥は声をかける。

「姉さん」

「突然どうしたの? 勝手に入ってくるにしても、一言くらい……あ、言えないのか」

 桜は弟が今日は一人で来たわけでないことを思い出して、文句を言うのを中断する。

「で、何の用?」

「ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいかな?」

「彼らのことで悩みがある、ってことね」

 いつもながら理解が早い姉に、松弥は昨日からの出来事をかいつまんで話す。それに、ある推測も付け加えて姉の判断を仰ぐ。こういうことは姉の方が詳しいし、勘も鋭い。

「そうね。それで合ってるんじゃない?」

「一応聞くけど、根拠は?」

 松弥の問いに、桜は意外そうな顔をする。そしてすぐににやにやと笑みを浮かべて言った。

「松弥が思ってるのと同じだけど、聞きたいならじっくり聞かせてあげる。ついさっき休憩に入ったばかりだし、時間はたっぷりあるからね」

 さっき出てきたときは休憩時間ではなかったことを考えれば、その言葉に嘘がないことは容易に知れる。

「同じならいい。じゃ」

「ん。いつか松弥にも春が訪れるといいね」

 最後の言葉は聞かなかったことにして、松弥は踵を返す。席に戻った松弥に、隣に座る胡桃が小声で聞いてきた。雪乃と静海は二人で楽しそうに会話をしている。

「ウェイトレスさんと逢引?」

「姉さんだよ」

 トイレのある場所と従業員のいる場所への道は別なので、よく見ていれば彼がトイレに行かなかったことは誰にでもわかる。隠していても仕方がないので、松弥は素直に答える。

「ああ、シスコン」

「おい」

「割と本気」

「ちょっと相談してたんだよ。誰かさんが頼りにならなかったから」

「ふーん。松弥、買い物終わったら時間ある?」

「……そういうところは鋭いんだな」

 松弥は苦笑する。胡桃は不思議そうな顔をしていたが、そうこうしているうちに料理が届いたので、四人とも会話を打ち切って食事に集中することにした。

 新鮮で良質な肉を使っているだけあって、ハンバーグの味はとても良く、四人はそれぞれのペースで一心不乱に食べ続け、食事中の会話はほとんどなかった。

 大満足で食事を終えた四人は、少し休んでから再び買い物に向かう。待ち合わせ時間が遅めなこともあって、午前中だけでは回れていない店もいくつか残っている。

 路地の裏から表へ、ショッピングモールへ戻ろうとしたところで、雪乃がバランスを崩して転びそうになる。わざとらしい転び方だが、それに気付いて冷静でいられたのは松弥だけで、静海と胡桃はそうではないようだった。

 二人とも倒れた彼女を支えようとしたが、松弥と一緒に雪乃の後ろで少し離れたところにいる胡桃には何もできない。しかし、近くにいた静海は間に合って無事に支えることができた。

 その拍子に静海の手が雪乃の胸に触れてしまい、態勢を立て直したのを確認すると、彼は恥ずかしそうに目を逸らして手を離した。

「あ、ありがとう。助けてくれて」

「……好きな娘が怪我しそうになっているのを助けるのは、当然のことだ」

 小さな声でも、静かな路地裏ではよく通る。彼なりの不器用で突然の告白に、松弥と胡桃は驚いた顔をする。もっとも、松弥にとってはその意味がちょっと違うものではあったが。

「……ありがと。やっと言ってくれた。これだから鈍い男は困るんだよねー」

 次に驚いたのは静海と胡桃だ。胡桃はわけがわからないようで、視線で松弥に答えを求める。しかし、彼が答えようとするよりも早く、雪乃が振り返って言葉を発した。

「ごめんね、松弥くん。変な期待させちゃって」

「いや、予想通りだよ」

「そっか。それじゃ、ありがとうだね」

 松弥の言葉に、それも想定していたとばかりに雪乃は自然に言葉を口にする。

「と、私からもちゃんと言わないとね。私も静海くんのこと、好きだよ」

 すぐにまた顔を戻して、告白する雪乃。静海は照れながらも、はっきりとそれに答えた。

 松弥はまだ一人、わけがわからないでいる様子の胡桃に説明する。といっても、細かい点を省いたら要点は一つだけだ。雪乃が告白してくれない静海を待ち切れなくて、松弥を利用してちょっと積極的な行動に出た、というだけのことである。

 普通なら怒ってもいいところだが、最初の時点で薄々気付いていた松弥にとっては怒る理由はない。そこで松弥の説明は終わったが、胡桃は鋭く質問をする。

「でも、なんでそう思ったの?」

「簡単だ。俺が雪乃に好かれる理由はないからな」

「ああ、確かに」

「納得するのかよ」

 そこはとりあえず励ましの言葉を言ってくれよ、と松弥は言おうとしたが、胡桃の性格を考えるとそれを期待した自分が悪かったと言うのは諦めた。

「……静海のせいだぞ」

「何の話だ?」

 仕方なく松弥は相手を変える。静海はじゃれてくる雪乃を抱きとめながら、不思議そうな顔をする。攻撃の続きをしたのは松弥ではなく雪乃だった。

「そうだよねー。静海くんが気付いてくれたら、私だってもう少し……」

 雪乃は去年から静海のことが好きで、告白はしないもののそれとなく好意を寄せている態度をとっていたという。しかし静海は全くそれに気付く様子もなく、仕方なく雪乃は他の人の力も頼ることにした。

「つまり、こういうことね」

 そして松弥、胡桃、雪乃が出した結論は一つ。静海が鈍いのが悪い。それに反論する声はなかった。

 そんなこんなで、彼らを――というよりは主に約二名、胡桃と静海を騒がせた事件は終わりを迎えた。

 二人が付き合うことになっても四人の友情は変わらないまま。ただ、ちょっとした変化はあった。その日の帰り、別れ際の出来事である。

 雪乃が松弥と胡桃を交互に見て、こう言ったのだ。

「余った二人は付き合わないの?」

 どういう論理でそうなるのかとか、何を言ってるんだとか、そんな細かい文句を口にすることはなく、松弥と胡桃は互いに頷き合って答える。

「それだけは絶対にない」

 綺麗に揃った声で。丁度、夕暮れの時間だった。


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