日曜日。
事態が動いたのは、その日の朝のことだった。昨日の橋の出来事のあと、簡単に鞠帆ちゃんに話を伝えようと寄った守月神社で、今日は成ちゃんと私の家で遊ぶ約束をしていた。普段より早い時間にチャイムが鳴ったと思って出てみたら、そこにいたのは液体を楽しそうに揺らしているンリァスちゃんだったのだ。
「今日のンリァスちゃんは里湖の使い! お急ぎでお手伝いしてほしいことがあるんだってさ、あたしも詳しくは聞いてないから、都合がよければ学校にきてね」
それからほどなくして家にやってきた成ちゃんといっしょに、私は玄関の近くで佇み浮いていたンリァスちゃんに、承諾の返事をした。
「お手伝いの中身はわからないんだよね?」
「けど、里湖会長のことだもの、私たちに手伝えないことなら頼まないでしょうね」
「そうそう。聞くだけなんてことにはならないと思うよー。あ、鞠帆のところには、鋭刃がいってるから。学校で待ち合わせで大丈夫だよ」
鋭刃くんとンリァスちゃんが住んでいるのは、湖の北の神尾塚の家だから、空を飛べるンリァスちゃんが守月神社で、鋭刃くんがこっちの方が近い気がするけど、気になった私が訪ねようとしていたのに気付いたのか、ンリァスちゃんは体を一揺れさせて答えた。
「今日はね、鋭刃は山でトレーニングしてたの! そこに突然の里湖会長からの伝言! 駆け下りてきて、私を飛ばしたってわけだね」
その伝言を飛ばした相手は誰なのだろうと気になったけど、神尾塚の家ならそれくらいの人は常にいるのだと思う。それよりも、山でトレーニングという言葉が衝撃的で、尋ねる気は起きなかった。
千メートルも越えない低さとはいえ山は山、そんな場所にいるならいざというときの連絡役や見守り役はいるだろうし、きっとその人たちを介して情報は伝えられたのだろう。
「わざわざ呼びつけるということは、発見の目途が立ったと見てよろしいのですわね」
二人と二触で学校へ向かう途中、ンレィスがそう言っていた。ンリァスちゃんも答えを知らないからはっきりとは答えなかったけど、同じ気持ちでいるのは体の揺れで伝わってきた。
もちろん、私たちもそういうことだろうと思って向かっている。見つける手段は完成した。だけど自分一人では実行できないから、私たちを呼んだ――きっとそういうことだ。
「ふむ、きたようだな」
「やあ、久しぶりだね。それとも、思ったよりも早い再会かな?」
校門の前では、同じように里湖会長に呼ばれたという正五さんと氷河さんが立っていた。
鞠帆ちゃんに月星ちゃん、鋭刃くんとは学校へ向かう道の途中で合流している。これで校門の前に、私の知る限りの触手が集まったことになる。
いない人といえば、今日もン・ロゥズにいるであろう恋凜さんがいるけど、彼女は施設の事件でも直接的には関わらなかったし、きっと今回の件にも同じ対応をすると思う。粉薄ちゃんはいても不思議ではないけれど、今はここにはいないようだ。
「みなさん、急遽のお呼びに応えてくださり感謝します。できるなら、ここからは私一人で決着としたかったのですが、それは今の私には不可能なのです」
私たちが集まったのを見てか、校舎の中から里湖会長が出てきた。休日にも生徒会の仕事があるのかはわからないけど、先生たちもいるから何かしらの理由で学校にいたのだと思う。
里湖会長は私たちの姿をざっと見回してから、小さく頷いて言った。
「みなさんには、見張りをお願いしたいのです。これから神尾塚の家に戻る途中、周囲を警戒――特に触手のみなさんには、他の触手が近付いていないか、閃穴が消えていないかを注意していただきたいのです」
「それくらいなら……」
「むしろ、それだけって感じね」
私は隣にいる成ちゃんを見ながら言って、成ちゃんは意外な顔で会長を見て言った。
「探偵には得意分野だな。氷河、触手側の指示は頼む」
「任せておいてよ。といっても、これだけいるなら……うん」
四触の共同警戒は、ンレィスと氷河さんが全体を、月星ちゃんが上空を中心に、ンリァスちゃんは自由に気になるところを確かめる、ということに決まった。
「僕は前方を警戒するから、色倉さんと大岩さんは右を、守月さんは左を、正五さんには後方をお願いします」
「了解した。しんがりは任せてもらおう」
「里湖様にはもう少し説明してもらえると助かるけど……ま、やめておく」
「ええ、推測の経緯を説明すると長くなりますので。残った仕事はもうないですから、すぐに参りましょうか」
こうして私たちは里湖会長の周りを囲んで、周囲を警戒しながら学校を北に出た。滅多にいくことのない北の古住宅地の方面だけど、先行するのは鋭刃くんと里湖会長だから迷うことはない。
神尾塚の家がどこにあるかは大体みんな知っているけど、実際に見たことがある、という人は私たちの中には会長らを除くと鞠帆ちゃんくらいだ。大きな建物や立派な建物は、神尾塚の家だけでなく、多く存在する文化財にも共通するから、見た目だけで探すのは大変だ。もちろん、表札を見れば一目瞭然ではあるのだけど、文化財を保護するために道は入り組んでいるから、最短で向かうのは大体では難しい。
入り組んだ道を迷わず歩く二人に続いて、私たちは周囲を警戒しつつ歩く。
「ンレィス、どう?」
「ええ、何かいますわね。それも複数、いえ、これは……」
反対側の鞠帆ちゃんを見ると、彼女も同じような答えを月星ちゃんから聞いたのか、小さく肩をすくめて私たちに軽く微笑んだ。
「ふむ。やはり、そういうことか。その触手とやらは、神尾塚里湖に興味を持っている。ゆえに、神尾塚の家の所有である施設にも現れ、そして今、多くの触手に――施設にもいた触手に囲まれていることで、さらなる興味を惹かれている」
「はい。問題は、それが興味でしかないことです」
探偵さんの推理と理解に里湖会長が頷いて、真剣な声でそう答えた。
「彼か彼女かわかりませんが、その触手は私に興味を持ち、私も興味を持っています」
「けど、接触してはこないから、この未来のアルティメットヒロインであるンリァスちゃんに、誘き寄せたところを捕まえてほしいってことだね!」
「違います。とにかく、勝負は神尾塚の家に到着してからです」
ンリァスちゃんの推理はあっさりと否定されて、彼女は液体を揺らしながら鋭刃くんと里湖会長の頭上の間をふよふよと移動していた。
「ちぇー。あ、触手みっけー!」
けれど彼女はがっかりした様子もなく、私たちにはちょっと驚きの言葉を口にした。
「だめですよ」
「わかってるって里湖。あれ、本体じゃないし、切触種の切った方だもん」
「他のみなさんも、引き続き警戒をお願いします。触手がいなくなるようなことがあれば、すぐに報告を」
里湖会長の言葉に、私たちは頷く。ちらりとンレィスを見ると、彼女は小さく触手を横に振っていた。ンリァスちゃんが見た触手を、ンレィスたちは見つけられない。
「素早く移動したのか、あるいはベールに隠れたのか、ベールから出てきた瞬間かもしれませんわね」
ただし、閃穴がいくつか消えたのはみんな確認できたらしく、そのときに隙ができたのでは、というのは触手のみんなの共通見解だった。
そして到着する、神尾塚の家は噂通りの立派な建物だった。普通の住宅地に建っていたら見蕩れてしまう、木造の古さと新しさが混ざった建物だけど、新しさが混ざっていない文化財は周囲にもちらほらあるせいか、景色に溶け込んでいてそれだけが目立つことはない。
敷地に入ると、外からでは塀に隠れて見えなかったところに別館のような建物があった。こちらも同じく木造で、まっすぐ先に見える大きな平屋と違って、二階建てだ。
見たところ、使っている木も違うのか、外から見える木の色も違う。まっすぐ見える先の本館らしき家は茶色い立派な木材だけど、もう一つの方は白樺らしき白い建物だ。
「あちらが兜の家で、こちらが神尾塚の家です。普段は鋭刃もこちらに住んでいますし、今はあまり使われていないのですけれどね」
いずれも、最近流行りの建築様式じゃなくて、古い建築様式である。といっても私はそんなに詳しくないし、昔ながらの日本家屋って感じだけど、そもそも北海道だとその時代には本土の人たちは多く暮らしていないはずだから……他の文化財も含めて、ここにそういった建物がたくさんあるというのは珍しいと思う。
神尾塚の家、あるいは触手との関わりがあって、ということだろうか。少し気になることではあったけど、私たちには他にやることがあるから、今は聞かないでおく。
「どうです、みなさん?」
「いますわね」
「……ん」
「本体は見えないけどねー」
「我にも、そういった気配は掴めないね。さすがだよ」
里湖会長の質問に触手のみんなが答えて、続いて私たちも返事をする。
「成ちゃん、どう?」
「灯と同じ……かしら」
「こっちも何もなし」
「後方も怪しいものはない」
「僕の目にも……うん、怪しいものはないよ」
里湖会長は大きく頷いて、静かに上空を見上げると、大きくはないけどよく通る声で言った。その声は、朝会や始業式で登壇した会長の発する声によく似ていたけど、あのときと違って、今日はマイクのない地声を響かせていた。
「私は神尾塚里湖です。あなたにお会いしたいのですが、姿を見せてもらえませんか。そこにいらっしゃるんでしょう?」
里湖会長に見上げる空、見つめる視線の先には青空が広がるだけで、雲さえない。しかし、同じ方向を見上げていた私たちの目にも、その変化ははっきりと見えた。
空が一瞬揺らぐようなこともなく、何かのマジックを見ているかのように、すっとそこに小さな触手が現れたのだ。小さいといっても遠いから小さく見えるだけで、実際はンレィスの半分くらいだと思うけど、それは突然現れたのである。
ただ、私たちもみんなその理由はわかっていた。姿を消す綺麗な衣、神秘のベール、それが探している触手の能力だということは知っている。だから、最初からそこにいたことはわかっているのだ。
「ソアリンはずっとここにいるよ。ふふ、見つかっちゃったね。――グレイズ!」
女の子の声だ。最後に叫んだ名前とともに、空に何本かの触手が現れた。
「喋っているのが本体で、周りは切触種の切り離した触手ですわね」
驚いている私たちに、ンレィスが解説を入れてくれる。
「みなさんの協力のおかげで、何とか見つけられました。あなたならそこにいる、と。お名前は、ソアリンさんでよろしいですか?」
「ソアリンはソアリンよ。ソアリングレイズじゃ長いでしょ?」
彼女はソアリン――ソアリングレイズというらしい。周囲に現れた触手は彼女の近くに集まっていき、ふわふわしながら中央のソアリンちゃんを守っているようだ。
見た目からすると、大事なソアリンちゃんを、周りのグレイズちゃんが守っている、お姫様と護衛のような感じもするけど、ソアリングレイズちゃんは一触だからどちらもソアリングレイズちゃんなのだ。
不思議だけど、切触種とはそういう触手だとは聞いている。初めて見た触手が彼女だったらこんなにすんなりとは理解できなかっただろうけど、色んな触手がいることも、どんな触手なのかも、知っているし出会っているのだ。今さら、驚きはしても動揺はしない。
中央の小さな一本の触手――ソアリンちゃんは遠くてもわかる綺麗な形で、周りを飛んでいる何本もの触手――グレイズちゃんたちも綺麗な形をしているけど、よく見ると大きさや形はソアリンちゃんと微妙に違う。
ソアリンちゃんより、やや太い触手、やや細い触手、ほんの少し長い触手に短い触手、様々な触手が本体を囲っていた。切触種、という言葉から予想していた平らな断面はなくて、前も後ろも触手の先端があって丸みを帯びている。そのどれもが、一本の触手であることはもう一つの共通点で、二本や三本に枝分かれしたグレイズちゃんはいないみたいだった。
「ソアリングレイズさん、あなたは私に興味があるのですか?」
「里湖のことは生まれたときから知ってるよ。ソアリングレイズは湖となかよし」
「そうですか、では……」
不思議な雰囲気のソアリングレイズちゃんに、里湖会長は一呼吸おいて言葉を告げる。ソアリンちゃんはその間にすっと地上に降りてきて、グレイズちゃんは空に浮いたまま、触手を差し伸べるようにして言葉を待っている。
「私はあなたと、ソアリングレイズさんと約束を交わしたいと思います。これから私が、あなたにふさわしい人間となれたとき、あなたといっしょにいさせてほしいと」
「ソアリンと約束?」
「はい」
「その約束は、未来の約束だよ。ソアリン、今の約束がいい」
差し伸べた触手はそのままに、ソアリンちゃんは明るく言った。その言葉と、動きが何を意味するのか、私たちの誰もが理解できないはずがない。里湖会長だって、その意味を正確に理解しているはずだ。
「私が一人で見つけられたのなら、そのつもりでした。しかし、それができなかった私に、あなたといっしょにいる力はまだありません。ですから、これは未来の約束――今の約束ではないのです」
差し伸べられた触手を、里湖会長は笑顔で見つめるだけで、受け取らない。私たちの多くはその態度に驚いていたけど、鋭刃くんだけはやや理解したような顔で受け止めていた。
「そう? ソアリンはいつでもいいよ。でも、里湖がそうしたいなら、ソアリンもそうする。いきましょ、グレイズ」
ソアリンちゃんはあっさりと差し伸べていた触手を引っ込めて、グレイズちゃんをたくさん引き連れて低空を飛び、塀の上を越えて湖の方へと消えてしまった。ベールはなくて姿は最後まではっきり見えたけど、塀に遮られて一本一本姿は消えていく。
けれど、最後に残ったのは、グレイズちゃんじゃなくてソアリンちゃんで、彼女は一瞬だけこちらを振り向くと、はっきりとこう言ったのだ。
「またね、里湖!」
「――ええ、また」
にっこりと、大きく幸せそうに笑う里湖会長の顔は、その日で一番印象的な景色だった。
消えていくソアリンちゃんと、それを笑顔で見送る里湖会長。その余韻に私たちが浸る間もなく、彼女は私たちの方を向いて告げた。
「みなさん、ありがとうございます」
その笑顔もとても綺麗で美しいものだったけど、やっぱりさっきの笑顔には及ばないのであった。
帰り道。
私と成ちゃん、方向が同じ鞠帆ちゃんの三人でいっしょに帰っていたときのことだった。
月星ちゃんは頭の上を離れて、私たちのちょっと前でンレィスと何やら楽しそうにはしゃいでいる。二触とも、初めて会った切触種のことで気分が盛り上がっているらしい。
「最近、約束って流行りなのかしら」
ぼそっと呟かれた鞠帆ちゃんの言葉に、私と成ちゃんは顔を見合わせる。
「私、約束はしてないけど……」
「そうね。でも、いいんじゃないかしら」
私たちは笑顔を浮かべて、呆れたような顔で私たちを見ている鞠帆ちゃんの視線を受け止めるのだった。そうしていると、彼女の顔からも呆れは消えなかったものの、笑顔がいっしょに浮かんできた。
「……ンレィスは、どっちが先だと思う?」
「わたくしは、そうですわね、やはり灯ではないかと……」
「うん。……私も、そんな気がする」
無口な月星ちゃんとンレィスの言葉がやけにはっきり聞こえてきた気がしたけど、きっと風に乗って届いたのだろう。私はそよ風で微かに揺れる前髪を軽く押さえながら、成ちゃんと手をつないでいっしょに帰り道を歩いていた。
了